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少子化が止まらぬ理由を考えた(3)〜子育ての世界にはいつも女性しかいない〜

 子供がいる生活になると、出かける先は、子ども連れの人がたくさんいるところばかりになる。私にとってはこれは、苦行であった。

 私にとっては公園は幼少期のかなりガチでキツい思い出の宝庫の場所である。キツ過ぎる思い出はなかなか話せないし、記事にも書けない。拙noteでは、一応キツい思い出の中では比較的マイルドなものを選んで書いている。これでマイルドなのかよ!とお思いの方もおられることだろう。第一人者の方とのカウンセリングでも本当に辛い思い出は話せなかった。話すのも、大変なのである。

一人で映画館にばかり行っている生活が長く、すっかりわすれていたつもりだったのだが、公園は、できればなるべく行きたくないところであったことを鮮明に思い出した。

さらに母になった女性ばかりが集まる場所もとてつもなく、苦手であった。八方塞がり。四面楚歌。孤軍奮闘。ゆえに、とにかく避けに避けた。一度、意思疎通のできない子供とだけ過ごす日々が辛すぎたため、行政が提供してくれている、母と子のふれあいの場、のようなところに行ったときも、悪魔のような顔をした肌が若干浅黒いベテランの女性の職員の方に、瞬時に目をつけられてしまった。AC(アダルトチルドレン=幼少期に家族との関係に問題があり、心に傷を負った人々のこと。元々はアルコール依存症の親を持つ子どもたちがこの言葉のもと、だと思っているが、正確なところはググってください…)あるあるだということも後に知ったのだが、ちょっとどうかしているタイプの攻撃的な人に、すぐに標的にされてしまうのだ。

恐らくは何も言い返さない癖や、集団が苦手すぎて挙動不審になってしまうことなども、原因のひとつなのだが、「どうしてあんなにすぐ見抜かれてしまうんでしょうねー?」と、第一人者の方とのグループセッションに通う、ガチACだらけの会合でイタリアンを食べながら大いにやんややんやと盛り上がったこともあった。

ある時期、長年悩んでいる体質について相談していた、またもや第一人者の女性のお医者さん(彼女も今は医師を引退してしまったと聞いた)にも相談した。彼女の著書には、本当に救われたのだが、著書が話題になり、とてつもなく多忙になってしまったらしく、その時はプロフィール欄に紹介されていた都心のクリニックではなく、身を隠すように、郊外のクリニックでこっそりと診察を行っていた時期だった。ちょうど自分も産休を取っていて、体調がそこまで悪くなかったタイミングと重なったので診察を受けたのだった。著書を長年愛読していたので、先生に会えたのはとても幸運だった。

「高校や大学は話が合う女性が多くて楽しかったのですが、幼少期はとても苦労して…。社会人になってから、女性が多い部署での経験はとてもつらくて、まずうまくいかなくて。学校のPTAとかママ友とか、マンションの近所の人との関係とか…自分よりは平気そうな友人たちも皆、とても苦労していて…。
自分は…絶対無理だと思うんです」

と、相談したことがあった。

先生はこう言った。

「ねすぎさんは、絶対かかわってはダメです。とにかく、風のように、逃げてください」

風…。藤井ならぬ…風…。

それを現在も、令和になった今も、忠実に守っている。エスケープ・ウィズ・ザ・ウインド。前置詞は、ウィズじゃないのか?わからない!受験英語の弊害!

その言葉を胸に刻んだ。私は風になる。ゆえに、公園デビューは、しなかった。ほぼ夫に行ってもらったし、公園に行く時は夫と息子と3人で行った。なるべく誰とも交流しないですむよう、LINEも長年やっていなかった。

また、元々服のダサさには自信があるのだが、ダサいこと、ヤバそうな見た目、なるべく友達になりたいと思われない雰囲気は大事だと思った。それは別に努力はせずとも、いつもニット帽ばかり被ってうつむきがちで歩いていたので自然と対策が取れた。

保育園などで、発表会などがあった際には、必ず、保育園のママたちを取り仕切っているグループのような人たちがいる。そういう人たちがいる日に一人で行かなければならないときは、とにかく人の輪から離れて、ひたすらにお昼のメニューなどの、掲示物を一言一句読み込むように尽力した。とにかく、話しかけられないように。送り迎えは半々くらいの割合で夫にも行ってもらったが、どうしても自分が行かなければいけない時も多かった。誰もいない時間帯にお迎えに行けるように、輪に入らなくて良い時間帯に行けるように努力した。イベントの主担当になってしまい、残業も普通にあったので、ちょうど良かった。


時短勤務にすると、給料が著しく下がる。残業代もつけられない。いまだに、かつて正社員だった時代に、産休を終えた後の復帰後、時短勤務にしていたことを、生涯にわたりまだ後悔していると言う50代のパートの方からのアドバイスもあって、時短勤務は、すぐにやめた。制度を作ってくださった方々には、申し訳ない気持ちはあるが、牧歌的だった時代は終わり、天気の子ならぬ、コストの子である自分にとってはかなり大きな違いがあった。このアドバイスには本当に感謝している。

保育園でいつも驚いたのが、私は元々人の顔と名前が全く覚えられないため、誰が誰のお母さんなのか、全く分からなかったのだが、たまに積極的に話しかけてくる方がおられ、その方々は、即座にラインを交換しようとしてくるのだった。私はいつも「ガラケーなんです」と断っていた。嘘ではない。つい最近まで、正確にはPHSのみと、wifiが繋がっているところでしか繋がらない、超絶旧型iphoneを使用していたのだった(!)。

彼女たちは、「ねすぎジュニアくんママですよね」と確実に息子の名前を覚えている。いつ覚えたんだろう。何かコツでもあるのかな。いつもそうなのだった。自分のところには情報がおりてこない。いつの間にか、周囲の女性たちはグループをつくり、やけにいろんなことを詳しく知っている。自分だけが知らない。彼女たちは、いつ、知ったんだろう。

とにかく、子育ての世界は、どこに行っても女性しかいないのだった。送り迎えに来ている男性はたくさんいるのだが、主担当が女性であると言う意識が保育士の先生たちには濃厚にあり、男性はその場にいないかのような空気がいつもあった。夫が行っても、あくまでも母親に伝えるという意識が保育士側にあるため、夫には大事なことを話してくれない。特に、保育士さんたちは、女性の正規雇用が、かつて多すぎたために反動でひたすら非正規雇用に置き換えられ始めている、男尊女卑な職場で、常に四面楚歌で、脳の半分が麻痺したような状態で仕事をしていて、決死の思いで電動自転車を走らせてお迎えに向かっている、残念な職場で働く私のようなサラリーウーマンの世界とは、全く無縁そうな、女性ばかりなのだった。保育士がいかに大変な仕事か、ということも今ならよく分かるのだが、女性ばかりの世界のいびつさのようなものは、どこかしらにただよっていた。中にはサバサバした先生もいて、とても助けられたが、なんとなくサラリーマンの世界と子育て世界との隔絶が凄いとは感じた。

そして、ほとんどのお知らせが手渡しの「紙」なのだった。


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