誰かが手を動かさないとうまれない【4/14】
先週末久しぶりに食事付きプランで旅館に泊まって、夕食や朝食のおぼんに載っているお皿の数の多さに圧倒されてきた。
お皿を見た瞬間、皿を準備する、調理する、盛り付ける、そして客が食べ終わったあとに皿を洗う……というあらゆる工程で生じる旅館の人たちの労力が脳裏に浮かび、誰かが自分のためにこんなにも時間を割いてくれていることに、ひしひしとありがたさを覚えた。
食事は誰かが手を動かさないとうまれない。にもかかわらず、自身は野菜を刻まず、フライパンを火にかけることもなく、ゆらゆらと席に座っているだけでごはんが食べられるってすばらしい。だから外食が好きだ。
でもその一方で自分の手を動かしてつくる自炊も好きだ。
自炊歴自体は20年近くあるけれど、最近やっと好きになってきた。ここ数年、料理関連の仕事をやるようになったおかげで、「この調味料はなんのために入れるものなのか」とか「この食材からはこういううまみがでる」などの方法論的な部分にたいする理解がちょっと進み、ぐっと楽しさを感じられるようになったのだ。
改めて考えてみると、自分の食べるものの味や量を自身でチューニングできるって、己のサバイバル力的なものをぐっと引き上げてくれる技術だ。
実家が薄味好みだったせいなのか、薄味が割と好きで、濃い味のものを食べ続けていると、つかれちゃうことがたまにあるんだけど、自分で作る場合、分量をミスらないかぎりはそうならないのでありがたい。
あと自炊のなによりもいいところは、名もなきごはんを自由に味わえるところ。適当にあわせたもの同士がうっかり共鳴したときの喜びは大きい。
でも、そんなふうに「食事」という存在をめいいっぱい賞賛していても、それでも「食べるのがめんどくさい」ってなる日がごくたまにある。
そういうときは、ただ白米を飲むように食べていたい。
それはそれでおいしいのだ。
気分ひとつでだいぶ振り幅がある。
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