推しを作るとゆうこと

私の祖母は今年で83歳になる。
この祖母があって今の私があるといっても過言ではない今回はこの婆さんについてのお話。

終戦時、小学一年生だった婆さんとは終戦記念日が近づくとNHKを見ながら「家の近所で死んだ人がいた」など同じ話をする。
その度に「田舎でよかったね もっと違う場所だったらあんたが死んでたかもしれないよ そしたら私はいなかったね」など笑いながら会話をするのが年一度のお盆の恒例行事です。

私は生まれた時からそこそこ裕福な家庭に育ちお金に困るとゆうことが一度もなかった。
だが親は仕事と遊びに明け暮れていた為、幼少期の私をほぼ婆さんが育てたといっても過言ではない。
そして間違いなく親が死ぬよりも婆さんがいなくなった方が私の精神的ダメージはデカい。
それぐらい偉大な婆さん。

そんな婆さんは私が中三の時に旦那を交通事故で亡くした
それからきっと男性経験はないのではないか?
よくデートらしきものには行っていたが。

ここで今回のテーマ「推しを作るとゆうこと」だが
私の父は以前、某横綱の元後援副会長をしていた。
(後援副会長時は大関)
明治神宮での推挙式、奉納土俵入り等にもしっかりと父がテレビに写り込んでいて何度も爆笑しその度に恥ずかしい思いをしたのを覚えている。

そんな事をしていた父の元には後援会挨拶周りなどで大男達が挨拶に来たそのままの流れで近所の住民達と実家の庭でバーベキューなどをして仲睦まじく交流を持つ場をつくったりしていた。

月日が経ち横綱は引退となり婆さんはとても悲しんでいた。せっかく横綱になれたのに怪我さえしなければと。

そんな中、うちの婆さんはずっと心に秘めたものがあったのだろう。


時を経てそれがわかったのは約1年前。


ビッグニュースが舞い込んできた。
なんとその元横綱(現・親方)が我が地元に超巨大な部屋を作るとゆう話が出回ったのだ。
婆さんが水面下で話を進めていたのか、そこに父が絡んでいたのか詳細は恐ろしくて聞いていないが婆さんの資産なる物はその部屋に全て寄贈、持っている膨大な農作地で米を作らせる手立てまでしていた。
これを聞いた時に言葉を失ったと同時に血は争えない。こうゆう婆さんになりたい。と心から思った。

「推しを作る」
とゆう事で人生を謳歌している。
年齢なんて関係ない。
これを自分の人生をかけて教えてくれる婆さんが今日も元気に推し活してることが私の楽しみのひとつだ。
今場所は九州場所で行けないはずなので、これから15日間サブ推し大男の取組について詳細にLINEで送ってくることは間違いないだろう。


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