俺は『シン・エヴァ』を観たら自殺しようとしていた
0,手段としての自殺
『完全自殺マニュアル』という本がある。
1993年に太田出版から発行された、自殺のやり方について過去の実例・具体的な手法を交えながら紹介する本だ。
そのあまりに「実用的」な本書は青少年保護育成条例によって「有害図書」に指定されている。
この本の前書きにこんな話がある。
僕の知人に〜(略)〜強烈なドラッグを、金属の小さなカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いている人がいる。「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」って言って――――
鶴見済『完全自殺マニュアル』太田出版,1993年7月7日初版
そう。自殺とはそれ自体が目的ではなく、あくまで手段の一つだ。
手段であるからには当然その手段を用いるための目的がなければならない。
この記事は、
「『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を最後まで観る」ことを目的とし、
その為に「自殺」を手段とした俺の物語だ。
1,『序』 大学生時代
俺はエヴァの現役世代ではなかった。
地上波アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と『Air/まごころを、君に』(通称:旧劇)は高校生の頃に地元のレンタルビデオショップでビデオテープを借りて観た。
思春期まっさかりだった俺にエヴァの世界観は刺激的であり、一瞬にして虜となった。
そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』は俺が大学生の頃に上映された。
その頃の俺といえば、ある格闘ゲームにハマり全国大会で優勝することを人生の目標だといって憚らないアホの大学生だった。
モラトリアムを謳歌し、あらゆるエンタテイメントを贅沢に嗜んでいた当時の俺にとって、エヴァはそれら数あるコンテンツのうちの一つになっていた。
『序』を映画館に見に行ったときも、高校生時代の感動が蘇りこそすれ、「面白かったな」という感想を友人と共感してそれで終わり。
この時点では、充実した日々の中に俺の中のエヴァンゲリオンは埋没していった。
2,『破』 新社会人時代
自分のやりたいことをやりたいだけ楽しんでいた俺を待っていたのは就職氷河期という文字通り、冷たい現実だった。
滑り込むように就職が決まった会社は当然のようにブラック企業。
肉体的・精神的な疲労によって休日は布団の中から出ることもできない。
自由な時間がなくなることにより、目標に向かって前向きに努力する時間も気力も失った。
その過酷な生活は曲がりなりにも明確な目標を持って生きてきた俺の心を打ち砕くのは容易かった。
だが、そんな折。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が上映された。
『破』はあくまで地上波アニメのリメイクでしかないと思われていた新劇場版シリーズのイメージを変える作品だった。
過酷な現実に打ちのめされるばかりだった主人公の碇シンジは自らの願いのために現実に立ち向かうことを選んだ。
自分自身の意思でもって。
その姿に、どれほど俺は救われただろうか。
「俺は俺の現実に立ち向かおう」
そう強く決心した俺だったが、
心よりも先に身体に限界がきてしまった。
入社一年目の健康診断に引っ掛かり、
精密検査の結果、重度の腎機能障害が見つかったのだ。
3,『Q』 ホームレス時代
障害者となって新卒で入った会社を1年足らずで退職した俺は実家に戻ることとなった。
しかし出戻りした長男に居場所はなく、あまつさえその実家すら失火によって全焼してしまう。
身体的・精神的に働くことさえできない俺は火事から再起しようとする家族にとって厄介者でしかない――。
そうして俺が自殺を目的として失踪したことは自然な流れだった。
失業給付金を元手に俺は死に場所を求めて全国各地を転々とし、
ついに路銀が尽きた時。
俺は北海道にいた。
さぁどうやって死んだものかと死に方を思い描いている最中――俺はある心残りを思い出した。
「あぁ、そういえば新劇エヴァの続きを観てないな……」
それは些細な心残りであったが、
いつ死んでもいいのであればそれはその心残りを解消してからでもいいんだ。
俺はひとまず目先の食糧問題を解決するために仕事を探すことにした。
幸いにも、身元不詳・無一文だった俺でも雇ってくれるホテルがあり、俺はそこで住み込みとして働くこととなった。
しばらくそこで働き、ある程度の食料と路銀を得た俺は都心に出ることにした。
理由は単純で、都心の方が北海道や東北よりも仕事があるからだ。
そして多摩川付近でホームレスとして生活しながら私は日雇いで働き、日銭を稼いだ。
仕事はブラック企業など比べるべくもない苛烈なものだったし、
貯金も技術の蓄積もできないその日暮らしであった。
それでも、私は「『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を最後まで観る」という目的のために生き続けた。
その結果、
私は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観ることができた。
必死に小銭を貯めて観た『Q』は素晴らしい作品だった。
『破』であれだけ奮起したシンジくんを待っていたのはシンジくんの行いによって致命的な傷痕をつけられた世界と、人々の冷たい視線だった。
完全に自分の行いが裏目に出たシンジくんはもう何も見たくない、何もしたくないと嘆く。
そんな彼を救おうと手を差し伸べるカヲルくん。
そして再び訪れる別れ……。
あんなに悲しい出来事があったのに、カヲルくんはシンジくんのことを想って笑いながら逝った。
世界には悲しいこと、つらいことばかりだと思う時がある。
それでもきっと世界のどこかには救いが、愛がある……。
俺はそう教えられた気がした。
ただ、これでやっと完結すると思っていた新劇場版シリーズはなんとまだ完結ではなく、もう1作続くらしかった。
人生を賭けて観に行った自分としては大きな肩透かしであったが、こんな素晴らしい作品をまだ観ることができるという喜びのほうが勝った。
そうして俺はまだ観ぬ『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のためにまた生き続けることにした。
少なくとも『シン・エヴァ』を観るまでは生きていこう、と。
4,『シン・エヴァ』 現在
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が公開されてから9年。
既に私が大学生時代に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観てから14年もの歳月が流れていた。
『Q』の頃から色々あった。
実家との和解、
持病の悪化による人工透析と臓器移植、
リハビリと社会復帰研修、
資格取得のための勉強など。
紆余曲折あって私は今図書館で図書館員として働いている。
ホームレスとして賞味期限切れの食パンを囓って生きていた頃からは考えられないほど生活が改善された。
ただし、仕事が大変なのと貧乏なのは変わらない。
それでも精神的安定度はまるで違う。
そうして忙しさに追われる毎日の中、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』上映の情報が舞い込んだ。
はっきり言って……俺は怖かった。
新劇場版シリーズの終焉を観てしまうことを。
エヴァンゲリオンが終わってしまうことを。
また、自分が、生きる意味を失ってしまうのではないかという恐怖が頭をよぎる。
それでも観に行かないという選択肢はなかった。
俺は俺の中で、エヴァにケリを付けに行かなければならないと。
そう思っていたのだ。
果たして、『シン・エヴァ』は良い映画だった。
これまでの全てに決着を付けるべく、『Q』で心を打ち砕かれたシンジくんは周りの人々の優しさによって再起した。
『Q』ではあえて描かれなかったシンジくん以外の人々による思い。
必死で日々を生きていこうとする人々の営み。
自分自身にできることを精一杯やろうとする人々の願い。
そして最後には相手の目を見て話し合うことの大切さを知ったシンジくんがゲンドウと対峙する――。
俺はエンディングロールで静かに泣いた。
5,「エヴァの呪縛」
新社会人時代からの私は「『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を最後まで観る」ためだけに生きてきた。
しかし私は――――自殺せずにこうして生きている。
14年という歳月の間に私は、
今という現実を受け止めて生きていける大人になっていたのだ。
もう私は「自殺」という手段に、「エヴァの呪縛」という救済に頼らなくても一人で……いや、誰かと手を取り合って生きていける。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』と共に歩んできた14年間が俺を独り立ちさせてくれたのだ。
エヴァがなければ俺はきっと10年以上前に……。
もちろん全てが上手くいっているわけではない。
これからもっと辛い人生が待っているかもしれない。
突然、あっけない幕引きが待っているかもしれない。
それでも、それでも。
俺たちは生きていられるまでは生きていかなければならない。
楽しかったり辛かったり、
泣いたり笑ったりしながら。
僕たちの未来を。
「仲良くなれるおまじない」を胸に――――。
2021年3月12日 ネロ造
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