『鬼滅の刃』はナショナリズム肯定作品なのか?を考えてみる
ナショナリズムとはなんぞ?
Twitterを見ていてちょっとおもしろいなと思った議論が、『鬼滅の刃』はナショナリズム肯定作品なのかそうではないのかというもの。
まずナショナリズムっていうのは、難しい話は置いておくと、まったく関係のない赤の他人を同胞だと思い込めるようにした、人類が生み出した最大の魔法のこと。これによって偉い人が定めた「国」という線引内の人たちを同胞と思い込むことを可能にした。
ひとは基本的に150人くらいまでしか友として認識できない(ダンバー数)。にも関わらず例えば、ぼくらがサッカー日本代表選手を応援する気持ちが湧き上がるのは、このナショナリズムによって生み出されたものだからだ。だって本来ならば、自分の人生とはまったく無関係なスポーツ選手である。応援する意味がわからない。でもこのナショナリズムによって、ぼくらは同じ日本国民として、彼らを日本を代表するチームとして一緒に盛り上がることができる。こういったことは現代では当たり前になっているが、実はこれはここ数百年でできたかなり新しい概念だ。
江戸時代の頃など、多くの日本人はムラの中から出ずに一生を終えていたので、実在する将軍さまよりもムラの森に現れると噂された妖怪の方が存在感が強かっただろうし、武蔵国のムラに越前国の薬売りがやってきたとしたら、それはマレビトであって、同じ日本人や同胞などという感覚はなかった。
近代に入って、西欧列強からの侵略に対抗するために明治政府はこういったばらばらだった日本に住んでいる人々を「日本国」というひとつの国民にまとめげた。これが日本のナショナリズムの始まりだ。
そして、ここでいう「ナショナリズムの肯定」とは、そういった「国を愛する気持ち、同胞を仲間と思う気持ち」というのは、時として為政者の都合の良いようにコントロールされてしまい、「国を守るためならば命を張るのが美徳とされること」を指している。
先の大戦で日本は多くの若者が死んでいった。それは「国」を守るために戦った尊い犠牲と思われている方も多いが、最近の調査では実は亡くなった日本兵の半数以上が餓死だったという。つまり、国を守るという大義の為に他国の兵士と戦い死んだのではなく、単なるトップの失策によって多くの若者が無益に死んでいったのだ。「愛国心」を利用され、餓死したのは尊い犠牲でもなんでもない。そんなものは人災だ。他国に殺されたのではなく、自国の為政者の愚策によって多くの若い人命が失われた。ナショナリズムが高揚するということは、為政者によってこのように国民の命が雑に扱われてしまうことにもつながる。だからこそ、それは危険であるという考え方があるのだ。
『鬼滅の刃』はナショナリズム肯定か否か(ここからネタバレ含む)
とまあ、ナショナリズムの解説が今回のメインではないので深堀りはしない。本来はもっと多義的な意味合いを含む言葉だが、ここで問われている意味だけに言及した。
ちなみに作品に対して正しい見方というものはないとぼくは思っている。なぜならば、知識量や捉え方、感受性が違えば、そりゃ同じ作品であっても全然感想が変わってくる。
だから「ぼくはそう思った」だけでいいと思っている。「お前の感想は間違っている」と相手を否定するのは違うんじゃないかなと。これだけ盛り上がっている『鬼滅の刃』に対して賛成だけじゃなく、批判の声があってもいいと思うし、賛否がある方が健全だからだ。異論を認めない世の中はそれこそ息苦しい。
ということを踏まえた上でぼくの意見を述べさせてもらうと、ぼくは『鬼滅の刃』はナショナリズム肯定作品では全くないと思う(ここからネタバレを含みます)
多くの鬼殺隊が若い身空で鬼に殺されていった。しかし、最終的には炭治郎をはじめとする鬼殺隊たちは鬼舞辻無惨に打ち勝ち、平和な社会になった。
ここまではたしかに描写されている。しかし、現代の東京においてその子孫たちはそんな戦いがあったことすら知らない。善逸が残した鬼との戦いについて書いた「善逸伝」も、子孫の吾妻燈子に「嘘小説」とばっさり切り捨てられているし笑、現代を生きる他の子孫もまったく鬼との戦いについて知らない。
唯一、鬼との壮絶な戦いを知っている産屋敷輝利哉はご長寿のなんも言わないニコニコしているおじいちゃんになっているし、鬼の愈史郎は、想い人の珠世の絵画だけを描き続ける謎の画家となっている。つまり、『鬼滅の刃』の結末から見ても、まったく「尊い犠牲のもとに今の平和がある」なんて思想はこれっぽっちも読み取れない。
そもそも、始まりの呼吸・日の呼吸の使い手で最強の鬼殺の剣士だった縁壱のことも、炭治郎と元・炎柱しか知らない。上弦の鬼や鬼舞辻無惨となんとか戦える柱たちのほとんどが縁壱のことを知らないし、そもそも鬼舞辻無惨に一番効果のある日の呼吸は潰えてしまっている。
つまり、過去の英雄を称えるものも描かれていない。英雄の強い技法を残していこうというものもない。緑壱に関しては英雄と表現するのも違う気がする。緑壱は強さを誇ったりしないし、そもそも戦いを好んでいない。緑壱の思想はこの2枚に集約される。
※『鬼滅の刃』コミックス21巻より
ただ、たまたま最強に生まれてしまったがゆえに、ひとの命を理不尽に奪う鬼舞辻無惨を殺すという使命感を持っている。そしてこの思想(ノブレス・オブリージュ)はその強い技法(日の呼吸)が潰えても、緑壱のことをまったく知らなくても、母親を通して炎柱の煉獄杏寿郎に受け継がれている描写がある。
※『鬼滅の刃』コミックス8巻より
つまり、『鬼滅の刃』で大切にしていることは、ひととひととの想いを紡いでいくということ。強い者は弱い者を守り、弱い者は仲間同士助け合おうということ。相手を尊重するということ。どんな相手であれひとの尊厳を踏みにじってはいけないということ。ではないだろうか。そして、ひとの命は理不尽なことによって奪われたり、辛い目に合うことも多い。だからこそ、真っ直ぐに前を向いて自分だけの幸せを探して生きていこう。そういった普遍的なテーマだからこそ、これだけ多くのひとに受け入れられたのではないか、と思っているのだが、、、どうだろうか。
当然、「鬼舞辻無惨の生きたいという強い願望も尊重すべきでは?」というふうに考えることもできるが、ぼくは鬼舞辻無惨=「理不尽」と捉えたので、そこはひとの枠組みに入れて読んでいない。鬼舞辻無惨をどう捉えるかによってまた解釈が変わってくるだろう。
※個人的には緑壱とその実兄で最強の鬼となった上弦の壱・黒死牟とのエピソードがとても好きなので、こんな感じの雑記で別で書こうかなと思っています笑
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