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「和牛券」や自粛要請しかできない日本政府を、「夏祭り」と「村八分」「部落差別」から考えてみた

日本の政治家や官僚の多くは優秀である

新型コロナウイルス封じ込め対策で経済が滞り、生活が困窮する国民に対してほかの国々の政府は率先して現金給付を実行している。対して日本政府は現金給付どころか和牛券を配るのはどうかなどと国会で話が出たとかで国民の政府への失望感は大きかった。

しかし、日本の政治家や官僚がほかの国に比べてバカばかりというわけではない。むしろ優秀なひとたちがほとんどだろう。少なくとも「和牛券とか舐めてるの?」と騒いでいたぼくら庶民の大半より頭がいいはずだ。なのになぜ和牛券の話題を止められなかったのか。

これはもう、民俗学の領域としか思えない。ひとりのバカな発案をまわりが忖度して止められないというのは、第二次世界大戦でも補給ルートを絶たれたのにも関わらず、バカな上官が精神論で兵達を突き動かしていった結果、敵と戦う前に病死と餓死で多数が亡くなった。科学的根拠や政治的な正しさより、上に逆らわない空気や、お互いのことを監視し合う民族性から来ているように思えるのだ。

夏祭りってなんで行われるか知ってますか?

日本は弥生時代より稲作と共に歩んできた歴史がある。豊かな自然ときれいで豊富な水、四季の変化により、ほかの国よりもはるかに安定した食料を確保することができた。欧州のように貧しい土地のせいで野蛮に奪い合いをすることもなかった。

日本人は長い間、毎年稲の成長サイクルで生きてきた。春は田植えで忙しく、秋は収穫で忙しい。なので、夏に男女が出会えるように村では夏祭りが行われた。世界で稲作文化がある土地ではどこも同じように夏祭りがあるのはそのためだ。お祭りとはいわば太古から続く出会い系なのだ。

夏に男女が出会い、秋に子供ができ、冬は母体は動くのが困難になり、春に子供が生まれ、また田植えが始まる。子供は産まれると稲作で忙しい両親に変わり、村の少し大きな子供たちが面倒を見る。子守の子供たちは幼い子の面倒を見ながらも、男女でエッチな遊びもよくしていた。しかし、それも女子に初潮が来ると離される。近親相姦にならない措置ともいわれている。それはともかく、子供は村の子供であり、村には村のルールがあり、毎年同じルーティーンを繰り返しているのだから、経験を積んでいる年長者の言葉は絶対なのだ。

だから、村のルールに逆らったり、上の言うことをきかないと村八分にされる。こうなると異性と出会う機会もなければ、そもそも生きていくことが困難になる。これがずっと続いてきた国。それが日本だ。日本は武士道の精神が〜とか言われるが、武士は特権階級であり、人口の大半は農民だった。西洋の近代的な考え方が入ってきたのがせいぜい200年前なのだから、空気を読んだり、忖度してしまうというのが日本人に根付いてしまっているのはある意味仕方ないとも言える。そもそも日本人が日本人だとそれぞれを自覚したのも、明治政府が海外からナショナリズムという魔法を取り入れてから芽生えた意識に過ぎない。それまでは自分は日本人だと自覚している庶民なんて皆無だった。だって、ずっと同じ村で同じルーティーンで毎年生きてきたのだから。

あなたは小学校の道徳の授業で同和教育をやりましたか?

ぼくは幼稚園の頃は埼玉県の所沢市というところに住んでいて、小学校に上がるタイミングで親が隣りの狭山市の丘陵を開拓して作られた建て売りの一戸建てを購入。以後、そこに住むようになった。縄文時代の頃、貝塚がその辺りにあったようでうちの庭からもたくさんの土器が出てきたのを覚えている。

狭山市は真ん中に入間川という川が流れており、古くから稲作が盛んな土地だったようだ。古い家も多く、豪農だったのだろうかと思うような、立派な蔵を持っている大きな家もあった。かと思えば、ろくに区画整理もされておらず、みすぼらしく黒ずんだ小さな家も多かった。

小学校の道徳の授業では、かなりの頻度で部落差別(同和教育)について勉強させられた。部落差別について知らない方に簡単に説明しておくと、江戸時代に士農工商という身分制度が作られた。武士が一番偉く、農民は2番目ということだ。しかし、実際は移動の自由もなく、ハードな年貢を納めなくてはいけない農民は実質一番下であり、人口も一番多かった。だから農民による反乱も時々起きた。そこで江戸幕府は上への不満をそらし、下々同士で争わせる為に、元々、屠殺や皮革の製造を行っていた穢多を非人身分として士農工商の下に置いた。穢多は下駄を履いてはいけないとか、ケガレているとか、わかりやすい差別を農民にさせることでお上への不満をそらさせた。ところが時代が変わってもその差別だけが残っているというのが、部落差別であり、それを伝えるのが同和教育である。たしかに長野にある父方の家は豪農の本家で、父は後妻の息子だったから色々と嫌な思いをしたこともあり今は絶縁しているのだが、子供の頃はお盆になると行っていたので、親戚のババアたちが「あそこのうちは部落なのよねー」とか普通に話していたのを聞いた。でも子供の自分としては特に興味なかったので流していた。

時を経てぼくが大学生になって驚いたのが、小学校の道徳の授業で同和教育したことがあるクラスメイトの少なさだった。自分が当たり前のように習っていた教育を同世代がほとんど受けていない。そして調べたところ、その小学校の通学地区に部落地区が入っているところだけ、そういう教育をしていたみたいだ。うちのような新規でやってきた家なら何もわからないが、古くからそこに住んでいる家の子供は親から差別教育を受ける。それを学校で解消させるための授業だったわけだ。そしてさらに驚いたことに、当時小林よしのりが描いた『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』を読んだら、未だにそんなことで差別され、就職や結婚すらできないひともいるという現実だった。根の深い問題である。

今も昔もお上は分断政策を行い、不満を自分たちからそらせる

なぜこんなことを語ったかというと、江戸時代も今もお上のやることは変わらないということだ。非正規雇用などワーキングプアの人たちが生活保護の人を叩きやすいように、メディアでは生活保護のひとがあたかも全員が働かずにパチンコや酒に使っているイメージを植え付けさせ、バッシングさせる。実際のデータでは、そんなひとはほとんどいないにも関わらず、だ。そして今回の新型コロナウイルスの件でも同様のことを行っている。

それは会社員や自営業問わず、金銭を補償するから外出禁止を強制するのではなく、自粛や要請ということにしているところだ。

禁止にしたら政府の責任になるが、自粛要請には法的根拠はないが、それに従う人たちが従わない人たちを叩く構図が生まれる。また、江戸幕府が穢多を非人にしたように、イベント関係者など特定の業種にターゲットを絞って要請しているのが、全く同じではないか。

そもそもイベントが駄目なら満員電車も駄目なはず。駅に止まるたびに換気が行われるから平気だと本気で思っているひとがいたら大丈夫かと問いたい。御用学者はそういうことも言うようだが。今のところわかっている感染経路は、飛沫感染と接触感染で、新型コロナウイルスはプラスチック上でも2日間は生きられる。ということはいくら駅ごとに換気を行ったところで、つり革や座席で感染する。

イベント関係者などを叩く対象にして、時間稼ぎをしているのだ。そして自己責任の下、身銭を切ってイベント中止にするか、世間から袋叩きにあってでも開催するかを個人に決めさせるのである。

空気を読むのや忖度は国民性であり、分断統治するのは昔から続くこの日本の上層部のやり方だ。しかし、良いことか悪いことかわからないが、この新型コロナウイルス騒動が大きくなれば、他国と同じような対応をせざるを得なくなり、日本の社会もまた変革されるだろう。これまた外圧からしか変われない日本社会の特徴ではあるのだけれど。。

だけどぼくは日本が大好き

かなり日本社会に対してdisり気味に書いてきたが、ぼくは日本が大好きだ。日本の郷土、文化、風習、日本人ならではの特性、日本語のおもしろさ、性の奔放さなど。ただ現政権が嫌いなだけだ。

夏祭りとか特に大好きである。理由はここまで読んでくれたひとなら言うまでもあるまい。どれだけ恩恵を受けてきたことか…笑

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