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23夏秋旅行記① かつてのアラル海を見た日のこと タシケント・ヌクス

 前回の旅行記の最後、「もう今後は逐一旅行記を書くつもりはない」とした。しかし、忘却というものは容赦なく襲ってくる。それがまた、懲りずに旅行記を書こうとしている理由だ。
 大学院の入試が終わってから数日後、私はまたパンパンのバックパックを抱え、関西国際空港行きの関空路快速に乗っていた。日根野での切り離しに不安になって何度も自分の車両を確かめた。2022年の夏はバルカン半島、ギリシャ、トルコと地中海をぐるりと回るように旅をした。今回の旅行も約40日間で、日本からウズベキスタン、アブダビで乗り継ぎアルメニアとジョージア、そしてトルコで乗り継ぎイスラエルとパレスチナ、最後にインド・デリーに寄って帰国といった、中央アジア→コーカサス→中東という旅程だ。
 ずっと憧れてきた青の中央アジアと、魅惑のコーカサス、そして世界を動かす宗教の聖地であるエルサレム。行きたいところに行かないと後悔する、と思いこの旅程を組んだが、それはイスラエル・パレスチナから帰国した直後の10月7日に発生したハマスの攻撃によって、ある意味正しいものとなってしまったかもしれない。

1.タシケントで旧ソ連にどっぷり浸かってみる

ラウンジ飯サイコー

 関空からタシケントまでは、仁川経由のアシアナ航空 OZ111/OZ573便に搭乗した。モバイルチェックインはカウンターに行かなくて済むのがとても楽だが、毎回本当にこれで大丈夫?そのまま乗れる?と思ってしまう。アシアナ航空は機内食のビビンバが美味しく、またプライオリティパスを持っているので仁川のラウンジをハシゴしてビールを飲んだりビビンバを食べたり、と贅沢に過ごす。機内でもビールを飲んで寝たり起きたりしていると、その日のうちに夜のタシケントへと到着してしまった。
 タシケント空港でSIMカードを購入し、タクシーを呼ぶ。旧ソ連圏でメジャーなYandexのタクシー事業が普及しており、SIMカードがあればとても気軽に使えるので、ウズベキスタン、アルメニア、ジョージアと何度も使用した。配車を依頼する前にいくつかの車の候補が出てきて、金額も事前に確定するというのがありがたい。難しいのだろうけど、日本のタクシーアプリもこうして事前確定してくれると楽なのにと思う。
 ウズベキスタンの通貨スムは単位が大きく、日本円にゼロを二つつけたくらい、とざっくり計算していた。また、ウズベキスタンはあまりキャッシングできるところがない。自国通貨への信用が薄いため、事前に用意しておいたドルを両替するという方式の方が丸い。116ドルを両替して1,396,640スムだ。とんでもないデカさ。

 首都にあまり観光地がないという国は多い。それはウズベキスタンも例外ではないが、訪れる人によっては「タシケントならでは」の魅力を見出すことができる。その魅力の一つが、美しい地下鉄駅だ。一日かけてこれらを回ると決めていた。訪れた駅すべてを紹介するのは難しいが、一番お気に入りなのが、駅名通り宇宙をテーマにしたコスモナフタル(Kosmonavtlar)駅だ。紺碧の壁には旧ソ連、またウズベキスタンを中心とした宇宙に関わる人物の肖像が並ぶ。それは、ガガーリン、テレシコワらのような宇宙飛行士だけではない。一番端には、サマルカンドに天文台を建設した統治者ウルグ・ベクの肖像がある。ウズベキスタンの歴史と、古来より連綿と続く宇宙へのまなざしや挑戦を重ねてきた先行者たちを感じられるのだ。なかなか熱いことしてくれるじゃないの、と思った。

14の肖像画の中にはギリシャ神話のアポロンも
グラデーションが最高すぎる……
ムスタキリク・マイドニ Mustaqilliq Maydoni駅

 また、もう一つの魅力は旧ソ連建築だ。旧共産圏やソ連の建築は愛好家も多いが、自論として、こと中央アジアのそれは一味違うと思う。なぜなら、中央アジアのイスラーム的建築や紋様(ドームやアラベスク、また色彩)と旧ソ連建築が融合して、世界でここにしかない独特のものが生み出されているのだ。このへんは写真集「ソビエト・アジアの建築」に詳しく、自分もこの写真集を読んでからその魅力にとりつかれてしまった。タシケント市内中心部においても、ホテル・ウズベキスタンやウズベキスタン国立博物館といった建築が紹介されている。 融合のよい例がチョルスー・バザールとウズベキスタンナショナルサーカスで、双方とも比較的近くに位置しており、青いドームがよく映える。チョルスー・バザールはとても大規模なバザールで、地下鉄駅を出た時からずっと露店が続き、野菜売り場やスパイス売り場、果物売り場、ナン売り場、ドームの中には精肉、ととにかく全てが揃う空間になっている。イスタンブールなどでバザールに行った経験はあったが、あれは建物の中に整然と店が並ぶタイプのものだし、大体が土産物やターキッシュ・ディライトを売る店だ。しかし、中央アジアのそれは遥かにカオスである。あまりの熱気と広さにやられてフラフラと歩いていると、何かを焼く匂いと煙が漂ってくる。気温40度近い夏空の下、サモサを焼いているのだった。その隣では鮮やかな色のアイスが売っている。

ホテル・ウズベキスタンは反復の美

2.タジキスタンとかつてのアラル海と墓廟を見に行く

 タシケントはタジキスタンとの国境に近い。ホジェンド(Khujand)というタジキスタン第二の都市へ一泊することを決めていた。ホジェンドの街とバザールがすばらしかったことは長々と別の記事に書いたから、ここでは交通手段に言及するにとどめる。直行のバスは時間が悪い。ホジェンドに行くために、まずクイリクバザールというバザールでウズベキスタン側の国境(Oybek)行きのシェアタクシーに乗り、歩いて国境を越え、今度はホジェンド行きのシェアタクシーに乗るという方法がある。こうしてシェアタクシーが頻繁に出ているのは、やはり二国間を行き来する人が多いのだろう。一応国境行きのバスもあるのだが、今回はシェアタクシーを利用した。

ホジェンドの美しいバザール

 行きは比較的スムーズに国境を越えられたのだが、問題は帰りだった。国境がとにかく混んでいて、暑さと人の多さで倒れそうな中2時間半ほどかかってやっとウズベキスタンに入国したと思えば、タクシーの客引きに囲まれる。鯉が水面に群がってくるような光景だった。シェアタクシーがあるのかもよく分からないし、他に利用する客がいるのかも分からない。ここで何もかもが面倒になってタクシーを決めたのがよくなかった。ホステルまで送ってもらったからそれなりの出費を覚悟していたが、にしてもかなり取られた!そして国境で熱中症になりかけたのか、この日の夜から寒気が襲ってきて、体調不良が始まった。
 次の日は、夜にウズベキスタン航空の国内線でヌクスという町まで飛ぶ予定だった。観光をしてもよかったが、あまりにも体調が優れなかったので、ショッピングモールに行き適当な風邪薬を調達した。ウズベキスタンで日本人が体調を崩すというのはよくある話で、水にあたったり、食べ物に用いられる綿花油を消化できなかったり、といった理由が多い。自分の場合は最初は単なる熱中症だったが、それを完全に治さないまま重いものを食べたりしたせいで、数日後には更に腹も壊して苦しむこととなってしまった。

 トルクメニスタンとの国境すぐ近くのヌクス(Nukus)空港に着いたのは夜、ちょうど空港前のホテルが安くなっていたので2泊することにしていた。新しいホテルなのだろうか、値段の割にあまりにも綺麗だったので感動してしまった。ヌクスに来た一番の目的は、ヌクスからバスで片道3時間弱のモイナク(Moynak)という小さな町だ。ヌクスの町はずれのSaranchaバスターミナル(まあ、ただの駐車場だが……)から、古びてばらばらになりそうなバスに乗って砂漠を行く。近くに座っていた老婆の歯は、すべて金歯だった。金歯はこうした社会における富の象徴かもしれない。暑い。電波も無い。ひたすら音楽を聴きながら目を瞑り3時間、やっとモイナクのバス乗降場に着くと、タクシーが待機していた。相乗りをしたところ、なぜか料金は払わなくていいと言われた。感謝しながら小さな博物館まで走らせてもらう。

 現在は砂漠のなかに取り残されているモイナクの町は、かつて、といってもたった数十年ほど前まではアラル海沿岸の町として栄えていた。ソ連は綿花栽培のために、アラル海に注ぐシルダリア川とアムダリア川の水を惜しむことなく使った。僅か半世紀のうちにアラル海はすっかり小さくなり、かつての10分の1という大きさになってしまった。アラル海より獲れる魚の缶詰工場があったモイナクも、今や「船の墓場」とよばれる海岸線の跡が残るだけとなっている。
 アラル海の縮小がもたらしたものは、産業の崩壊や水不足だけではない。塩分濃度があがって魚は棲息できなくなり、砂埃や有害物質が風に巻き上げられ、住民は気管支疾患で苦しむこととなった。かつてのアラル海の豊かな自然を展示する博物館では、かつての海を映すモノクロの短編映画、今はもういない動物たちのはく製や貝殻、缶詰を見ることができる。

 外に出て、かつて海岸であった場所に降りると、海の縮小に追いつけなかった小さな貝殻が多数取り残されているのがわかる。いかにすごいスピードでアラル海が消えていったかを実感した。また、訪れた人びとが捨てていったのだろう、割れた瓶の破片も落ちている。海岸線の向こうに水が讃えられているならばそれは丸くなったかもしれないが、水などなく、破片は尖ったままだ。
 廃墟趣味の観点から船の墓場に訪れる人もいるが、これは間違いなく近代化にともなう負の遺産でもある。私は旧ソ連の遺産(おもに建築)を愛好しているが、もちろん思想的にも政策的にもソ連を支持はしていないし、こうした負の遺産にもきちんと向き合う必要があることを改めて考えさせられる。一方で、アラル海まわりの遺産は間違いなく負の側面を伝えるものではあるが、旧ソ連の遺産がすべて唾棄されるべきものというわけでもない。 
 現在アラル海のほんとうの水面を目にするには、モイナクよりさらにさらに遠くへ、それこそ泊まりがけでツアーを組んで行かなければならない。

「船の墓場」

 帰りはどうしようか考えながら歩いていると、大きなバンが止まって、乗れと促された。結局これはツアーに途中参加という扱いだったらしく、最終的には相応の料金を払ったのだが、個人ではアクセスが難しいミズダハンの墓廟群という遺跡に行くことができたし、ホテルまで送ってくれたので相応の価値はあったと思う。最初にいくらかかるかちゃんと言え!とは思うが。 ミズダハン(Mizdakhan)は14世紀のティムール遠征までは栄えており、ホラズム地方のなかでもクフナ・ウルゲンチ(現在はトルクメニスタン領内であり、世界遺産にもなっている)に次ぐ2番目に大きな都市だったという。今となっては人の姿ひとつも見えず、ただ土、黄土色、砂埃、草原といった光景だから、当時のシルクロードの繁栄はまったく想像ができない。
 
 かつてはアラル海が豊かさをもたらし、ホラズム・シャー朝の興ったホラズム地方だが、モンゴル勢力やティムールの遠征、ロシアの統治を経て現在は国境線によって分断されている。アラル海の縮小茶色の丘陵にずらりと並ぶ墓廟や遺構は遠くまで続いているが、たった数キロ向こうの国境を越えることはできない。
 ミズダハンではかつてゾロアスター教がさかんに信仰されており、鳥葬に使用される塔であるダフマやその後に骨を納める納骨堂が残っている。一方で、現在もウズベキスタンでは多くがイスラームを信仰しているが、ミズダハンにもモスクが残り、双方の宗教の混淆がみられるという。また、あのアダムの墓がここにあるという伝説も存在するらしく、今回の旅行内では合計三か所のアダムの墓を訪れたことになる(残り2か所は、エルサレムの神殿の丘とヘブロンのマクぺラの洞穴だ)。

トルクメニスタンの方を望む
石が積み上げられているのは賽の河原を連想させる。やはり積みたくなるものなのだろう

3.カラカルパクスタン、ホラズム地方、そして城壁

 ヌクスの町に帰ってきて、ちゃんとしたウズベキスタンの料理を食べたいと思い、評判の良かったシャシリクの店に行く。シャシリク2本とマントゥは非常に美味しかったが、知らないうちに胃腸にはダメージが蓄積していた。この後、この脂が暴れることとなる。
 さて、ヌクスのおもしろいところはまだある。ヌクスはカラカルパクスタンの首都である。約170万人の人口を擁するカラカルパクスタンは、ウズベキスタン内の自治共和国として「住民投票によって独立する権利を有する」し、独自の言語もある。詳しくない自分からすれば違いはよくわからないのだが、カラカルパク語は同じテュルク語族のなかでもウズベク語よりはカザフ語に近いらしい。ウズベキスタンは南北に長く、その中で全く文化も言語の系統も異なってくるというのは当然のことでもあるが、興味深い。
 ヌクスの中心部にあるイゴール・サヴィツキー美術館は、世界でもっともソビエト・アヴァンギャルドの収蔵数が充実しているらしい。自分が行った時にはあまり見れなかったが、いくつか惹かれる作品もあり,ヌクスの伝統的な民族衣装やウズベキスタン出身の作家の絵画も見ることができて比較的満足度が高かった。こんな地方だからこそソ連時代のスターリンによる芸術の弾圧から逃れることができたわけだが、多数のコレクションを維持し続けるのはさぞ大変だろうとも思う。

ものすごくジューシーでおいしい。日本ではこんなおいしい串は食べられないだろう
伝統的な民族衣装

 2泊したヌクスを離れて、次は同じくホラズム地方、ヒヴァ=ハン国の首都でもあったヒヴァ(Khiva)を目指す。この区間はシェアタクシーを探すしかない。とりあえず入った店や通行人に聞く限り、ヒヴァへのシェアタクシーはバザール付近から発着するらしい。しかしそれらしい車はなく、客引きはヒヴァという地名を聞くなりかなりの金額を吹っかけてきた。比較的物価の安いウズベキスタンであってもさすがにと思う金額だったし、他の乗客もいなさそうだったので「今ヒヴァに直行するまともなシェアタクシーはない」と結論づけた。とりあえずはウルゲンチ(Urgench)という街を目指して、そこから改めてトロリーバスでヒヴァに向かうことにした。今の時点で昼下がりだから、あまり夜が遅くならないうちに着けるなら大丈夫だ。

 さらに現地人に聞き込みを重ねて、やっとウルゲンチ行きのシェアタクシー乗り場を教えてもらった。バザールから道を挟んで、さらに奥の通りに入ったところだったから、誰かに聞かないと絶対に見つからなかっただろう。もしかしたら今はまた場所が変わっているかもしれない。ウズベキスタンやアルバニア等、人が集まって出発するタイプの交通手段の情報に関しては、インターネットはあまり頼りにならない。こうした場当たりの旅もそれはそれで楽しいが、実際にやっていると不安が勝つのも本当だ。人が集まるまでかなり時間がかかり、やっと出発してもウルゲンチまで狭い車に詰め込まれて数時間、バザール近くに到着した。バザールをちゃんと見る元気もなく、そのままトロリーバスに乗ってヒヴァを目指す。終点まで乗れば、ヒヴァの旧市街(イチャン・カラ)を囲む壁が目前に迫る。すでに夕刻に差し掛かっており、城壁のシルエットが暗くなっていく空に浮かび上がっていた。


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