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夜中の
2023年3月7日 02:55
薔薇を飼い始めたのは去年の7月からだった。去年の手帳の7月のページにあの仄暗い喫茶店の名前が記してあるから確かに7月だった。「薔薇」というのはその美貌に対する安直な名付けだったが、もう薔薇は薔薇としか思えない。喫茶店で何を頼んだのか、どういう経緯で薔薇と会話を交わしたのか、今となってはすべてが曖昧だ。……いや、Kがいたな。Kが薔薇を呼んだんだ確か。お前に会わせたい子がいると言うから、またいかがわ
2022年8月21日 16:38
兄が生贄に選ばれたので、爪を磨くのを手伝っている。兄は村で一番美しい男だったから、生贄に選ばれたと聞いても誰も驚かなかった。幼いころからはっと息を飲む美しさがあったが、最近は美貌に年頃の若者のもつ鋭利な危うさと妖艶さも混ざり、寄れば熟れきらない南国の果実の香りさえした。美しい足を膝に乗せ、一本一本爪を磨く。兄はそれを静かに見ている。◆数年前、一時帰国した叔父がパパイヤを切り分けながら「日本
2022年8月19日 12:57
Sが鏡に映らないのに気がついたのは、夏休み前、研究棟旧館のひとけのない階段の踊り場の大きな鏡の前だった。思わず「あ」と口に出し、鏡とSを何度も見る私に、Sは「体質なんだよね」と恥ずかしそうに笑って見せた。「気がつく人はたまにしかいない。というか、ほぼいない。中学の時に近所に住んでた兄ちゃんと、高校の時の教育実習の先生くらいかな」「家族は」「気づいてないよ」「大学にもいないの?」「貴方が初
2022年7月3日 01:36
月を齧って欠けた歯を埋めた植木鉢から、にょきりと緑青色の植物が生える。薔薇に似た鉱物のような白い花が咲き、夏のはじまりに朽ちる。やがて重たげな実が付き、はち切れそうに艶やかに実っていった。相変わらず宿無しのYがスーパーの半額の寿司と安酒とアイスキャンディーを持ってやって来たのは、風のない暑い夜だった。Yは以前よりも痩せ顔色も悪かったが、瞳には昔と変わらない、金星でも嵌め込んだかのような光があ