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③推し、燃ゆー”明けなさ”を抱えて生きる

『推し、燃ゆ』宇佐見りん 4/5

すごい小説に出会った。”明けなさ”を描き続けたいっていう作者に共感。苦しみ抜いた末に希望が見えたっていうよくある話じゃなくて、どうにもならん重たさを抱えたうえで、それでも生きていこうとする人の物語が読みたかったから。


情景・心理描写の語彙の豊富さがやっぱり作家のそれやった。凡人にはとても思いつかない言葉の数々。「桃色の膝頭に向かって」(桃色という一言で若さ・瑞々しさを想起させる。天才)とか「柑橘系の制汗剤が冷たく匂った」(嗅覚に対して「冷たい」っていう触覚で形容する感性すごい)とか「抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している」(大勢の人間が同じ水の中に入ることへの抵抗感ってこう言語化できるんや)とか「肉体は重い。」(簡潔にして真理)とか。


表情豊かな友達の本質を「感情を単純化して表現している」って見抜いたり、「スタンプみたいな」笑顔や「アイコンを取り換えるように」変わる表情、っていう描写はスマホ上の二次元でのコミュニケーションが当たり前になった私達世代の感覚。デジタルネイティブ世代の小説がついに来た。

推しを見つけた時に初めに感じたのがときめきでも驚きでもなくて”痛み”やったっていうのが面白い。「めりこむような」鋭い痛みと「突き飛ばされたような」衝撃。身体感覚を伴った生々しい心の痛み方の表現。


主人公・あかりのことを推しを”解釈する”ファンって表現しているのを見て(ああ、私は今まで楽しんできたのも”解釈する”行為やったんや)って初めて気付いた。気になる人ができたら(新しい友達やnoteの書き手やアーティスト)今までにその人が残した書き物を漁って読みまくり、インタビューは過去に遡って読んで、ラジオがあれば聞いて、(この人はこういう人かな)っていうのを勝手に想像して楽しむ。さらに別のものでその予想が裏切られたらその意外性を楽しみ、(実はこういう人なんかも)ってまた自分だけの”その人像”を作る。

このサイクルが楽しいのは、(これで本人の思想・人柄が知れてる、垣間見れてる)っていう感覚があるからやと思ってた。でも自分が感じていたのは、”その人の真実に近づく”楽しさじゃなくて”自分勝手に想像を膨らませて解釈する”楽しさやったんやってこの小説を読んで初めて気付いた。名前がなかったものに名前がついた。


ラストの、綿棒を拾う場面。初読時は(あー、他の物は散らかすと後片付けが面倒やから綿棒選んだんや、どんなに気持ちが昂っても自分の中の一部は常に理性的で激情に吞み込まれきれへんのか、その失望感わかる)くらいにしか思ってなかった。でもでも。選者評読んで、あかりにとって綿棒拾いは推しの骨拾いのメタファーやったって気付いてからは、綿棒を骨に見立てるなんて…上手い…という気持ち。

ラスト二行

「体は重かった。」

「綿棒を拾った。」

この余韻の残し方。最高。

二足歩行は向いてない。這いつくばりながら、これが自分の生きる姿勢だと思う。当分はこれで生きようと思う。

立ち上がれなくてもいいって肯定されている。這いつくばったまま生きてもいいし、それはそうならざるを得ないことじゃなくて、「当分はこれで生きる」と自ら選び取れるようなこと。これこそ、”明けなさ”を抱えて生きるってことを言い当てている。


「生きていたら、老廃物のように溜まっていく」諸々を日々絶え間なく処理して、やっと「人間の最低限度の生活」のスタートラインに立てる。実家から出て初めてこのことに気付いた時は絶望した。生産的なことは何一つしていない日でも、洗濯物は溜まり部屋の隅は埃にまみれ汚れた食器は増える。生きてるだけなのに、面倒なことがこんなに増えていくなんて。

でも家事が日々のルーティンに組み込まれるうちに、いつしかその面倒さにはうまく目を瞑れるようになった。その面倒さに見て見ぬふりをして、面倒だと思う前に自動的に体が動くように飼いならして。

そんな今の自分にとって、あかりの掃除の出来なさは怠惰に映るし、精神の落ち込みも荒れた生活状況から来てるんやからまずは部屋の片付けでもすればいいのにって思う。でも、私がこう思えているのは自分が健康で生活を回していく面倒さを見ないことにして半自動的に処理していける余力があるからで、環境が変わればいつでも誰でもあかりのような精神状態になり得る。そうなった時に生きる力をくれるのが推しの存在なんかも。


外にいるから、待ってる、移動してる、口実があるから人は何もしないことに耐えられる。これが家で、毛布にくるまってゲームをしていたら「日が翳っていくのにかかった時間のぶんだけ心の中に黒っぽい焦りがつのっていく。何もしないでいることが何かをするよりつらいということが、あるのだと思う。」超共感。この焦り、後ろめたさ、時間を無駄にした失望。覚えがある。そういえば電車通学しなくなって久しいけれど、酔うから本もスマホも見れずただただ窓の外を眺めるしかなかったあの時間は”何もしなくても許される”、心の平穏に一役買ってた貴重な時間やったのかもしれない。


「わらった」「ひろった」「ぜんぶ」「ぶん」

作中であえて平仮名になっている言葉がいくつかある。平仮名特有の柔らかさと同時に、文字数の多さから来る重みも感じる。昔、中学生の頃、上の句と下の句で漢字と平仮名の比率を圧倒的に変えた短歌を見たな。あれが漢字の冷たさと平仮名の温かさを意識するきっかけだった。と、思い出す。








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