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奥志賀にて

23歳を迎えて来た高原で、初めて避暑地という概念の必要性を理解した。

様々な気候や感情の変動に、以前よりも敏感になった。
子供の頃は内なる衝動が世の中の全てで、東京から長野へと徐々に移り変わる景色もその投影の対象にしか過ぎなかった。それが今は、自分の中から流れ出す何かと目の前で漸進的に変化する情景が溶け合うその一点に自分がいるような感覚になった。観念的に言えばそれは外界はコントロールできないものなのだという諦念を得たということかもしれないが、年を重ねることは何も諦めるばかりのことでもないような気がした。少なくとも僕は、避暑地というものに積極的な意義を見出だすことができた…


ラウンジは僕のお気に入りの場所だ。
昼間に行っても暖炉に薪火は灯いていないが、乾いたサウナみたいに木の香りが紅茶に溶けていく。ソファから左へと視線を逸らすと山の輪郭より上がグレーになった空から大きな窓が曖昧な日光を受けている。

飲むか吸うか読むだけの生物。
高原に来ると、自然の深緑と曇り空の青がかったグレーで自然と落ち着くことができる。渋谷のオフィスに眠い体を引きずっていく時の僕は、照りつける太陽が眩しくて意識が半分白飛びしてしまているような感覚だが、ここにいる時は目をじっと広げてみたくなる。

カフェから出て丘を歩くと、花の香りと赤蜻蛉、それに山脈の向こう側から雷が鳴っている。ニースのプラージュ・パロマで、ヴェルサイユ宮殿の庭園で、ここで命が終わっても全く悔いはないと思ってしまった過去を思い出した。周りに何もないので、急に雷が落ちて来てもおかしくないと思った。

森の奥に続く道があった。
堀辰雄の小説のように道を辿ると森の中に泉があって、そこにメデューサがいるのかもしれないと思いながら僕は奥へと吸い込まれていく。車に2本ある石畳の間に生え茂る草が不揃いな花々から生き生きとしたクローバー等に変わったのをみて少しゾッとした。立ち止まると風の音も雷ももう聞こえず…自分の脳みその中でどゅーんとドロドロした何かが流れ続けている音だけが響いた。

絶えず変化し続けるドロドロの統一体として僕らは生きているように感じる。しかしそれだけではダメで、やはり世界を言葉で切り取ってそこに意味を与えないといけないのだ。時々ノイズのない世界に来てドロドロで流動的で曖昧な自分の姿を感じながら、それでも意味を与えて生きていく積極性みたいなものを都会にいる普段から見出していけるように努力していく。この営みを忘れてはいけない、と思った。





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