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無名のまま、母のまま、自分のまま、表現するために

一度オープンにした投稿を、すぐに取り下げてしまうことが、よくある。

正直に生きたいし、自信を持って自分の感じたことを表現したいけれど、違う世界観で生きる人の感情をかき乱すことを恐れている。

匿名の別アカウントを作ってみようと何度も思ったし、試したこともある。

でも、そうすると今度は、表現意欲の主導権をマイナスの感情に奪われて、表現が単なるストレスの発散の道具になる方向にどんどん引っ張られるのを感じてやめた。

家族を持たない生き方を選んでいたなら、その手の表現も一つの道としてあっただろうけど、親になったら、散々「陰」の感情に任せた表現をやった過去があるくせに、「陽」でありたいと自然と思うようになってしまった。

そうなる前は、「子ども産むと芸術家はつまらなくなる」なんて話を同志としてたけど、本当その通り。「隠」から見ると、「陽」はみんな同じに見える。というか、その逆も然りで、自分のいないフィールドはその本質的なムードみたいなものでしか捉えられないから、結局どれも同じに見えてしまう。

どちらがいい、正しいという訳ではないし、この世界にはどちらも必要だ。

「隠」には「隠」の奥深さや面白さがあり、今でもその感覚に心を寄せることはできるし、ちょくちょくする。

でも、自分の表現としては、今は「陽」であることが心地いいし、この道の先を見たい。

体調によっては「隠」が心地いいときもあるし、既にこの投稿自体「隠」寄りだし、いつか「陽」極まって「隠」転するとしても、ね。

ただ、ネットでの投稿で難しいのが、ネタ的に逆フィールドや別の世界観の神経を逆なでする「呪文」が含まれているものだ。

「呪文」とは、言葉のことなんだけど、その中でも、ある特別な強い印象を想起する言葉。

今なら「コロナ」とか「マスク」とか「旅行」とか、ね。

実際それでなんかの検閲に引っかかったり検索のフックになるのだから、全ての言葉はネットの世界では実在としても呪文として作用するんだけど、そうでなくても、聞いただけで「モヤっと」する人がいる言葉がここのところどんどん増えていて、

「視野が広がり、楽になる」ことを願って書いた記事が、視点が遠すぎる相手には強い認知的不協和(人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語)を起こさせてしまうことになる。

いろんな精神状態や視野の人がいる以上、これは避けられないのだけれど、子持ちで顔晒してる人間としては、誰かを傷つけることで敵を作りたくない(万一にでも家族を危険に晒したくない)という一線があり、配慮をしなければと、いろんな限定条件を書き足したりしているうちに、何が言いたいのかわからない記事になってしまったり。

一方で、そういう家族を守るために自分で作った配慮の渦が、子どもを持つ女性全体を息苦しくすることに加担しているんだろう、自覚したりもする。

この辺のことはもう、数年ずっと行ったり来たりしていて、悪いお母さんでいいじゃないか!と開き直ったり、エゴを克服する修行として家事だけに生きてみようと割り切ってみたりするも、

そう振り切れずに、波のようにA点とB点を螺旋的に往復運動をしながら、少しずつ違和感のない、自分の魂に正直な表現に近づいていく、その過程を記録していこうと、寝起きにいま思って書いています。

こんな風に、文体もしおらしくなってみたり、独り言のようになってみたりする部分も含めて、自分の中に住んでいる思考が、何を吐き出すのかをただ観察することに、意味は知らないけど興味があるのです。

とはいえ、やっぱりあんまりにも母親が変なことをするせいで、子どもがよその誰かに「あそこのうちの子と遊んではいけません」なんていう親はいないと思うけど、そうなったら嫌だなあというビビリがまだ私の心の片隅で野営を続けているので、

そのような投稿は、違いすぎる人に見せたくないけど、黙って消したり、そこだけ匿名で自分の人格から切り離さないために、ザ・100円の鍵をかけて(過去下書きに戻したものは再)投稿することにしました。

少なくともそうすることによって、潜在的に怒りの矛先を探している誰かが「呪文」のパワーで引き寄せられてしまうことがなくなるので、誰かの平和が乱されることはないでしょう。

ウェブで支持されるには、「わかりやすいポジションを持ったキャラ」で「価値ある情報を簡単に」「繰り返し一貫して」伝えることが秘訣。

数年間色々アカウントを作ったり、匿名で発信して実験するなかで、それはその通りだと確認したけれど、気づいたのは、それが生活を豊かにする金のなる木に育ったとしても、

「自分を偶像化したキャラ」の鋳型のなかで、それが自分であるかのように生きるためのシステムを自分で作ることは、

匿名であれば、どんなに成功しても承認欲求と自己実現を果たす自己は生涯生身の自分と統合できないために、システムを支えてくれる人を求めてそのステージをいつまでも走り続けなきゃいけないし、

実名であれば、隷属する対象を人が作ったものから自分が作ったものに置き換えただけに過ぎなくて、しかもそれが「自分そのもの」と他人から思われ続けることは、

そのシステムが機能する限り、自分の考えが変わっても、望む生き方が変わっても絶対に出ることができない棺桶を自分で作るようなものだと気づいたからです。

本当は、大なり小なりみんな「隠」と「陽」を波のように行ったり来たりしながら、視野を広げたり、視点が変わったりしながら生きていくのに、それ以上成長することも、別の生き方をすることもできないことは少なくとも私には耐えられない。

ネットの誹謗中傷は良くないことだけど、それも相手が生の人間ではなく「偶像」であるからこそ、「匿名」という形のないものが「引き寄せられる」っていう、不可避な力学的なものもあると思うから、

自分はふわふわしてゆらゆらした生身の人間のままで表現をしてみたい。

というわけで、一貫しない文章を綴ってみました。

急がず、飾らず、バズらずに、一歩一歩素直になっていきたいです。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。