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「あたらしい」ものは、正しく評価できない

※この毎日投稿は、朝Stand.fmに音声投稿をふりかえりながら、補足や一歩踏み込んだ内容を書いています。

今日は、導入を短くしてみた。

聞き直してみると、なんかしっくりこなかった。

長すぎて言う度に毎回噛んでしまうし、聞き手にどうでもいい情報だから短くていいはず。

でも、長いのが耳に慣れているせいか、どこか気持ち悪かった。
これが慣れなのか、本当にリズム感が悪いのか、分からずにいる。

「変えたこと自体が違和感でしっくりこない」主観に惑わされて困ることは、耳以外でもたくさんある。

たとえば、メガネを買い替えるとき。

それから、靴を買い替えるとき。鞄を買い替えるときも、そうかもしれない。

他人から見たらくたびれているだけなんだけど、そのくたびれた風情そのものが「なじんでいる」感があって、「あたらしい」というだけで、何を身につけても「浮いている」と感じてしまうのだ。

そういうとき、だいたい同行した家族や友人は、全然そんなふうには見えていないらしい。

だからその言葉を信用しておそるおそる購入するんだけど、たしかに1週間もすると、自分も気にならなくなってくる。

なんとも不思議だ。

今日の導入の文言は、どちらだろう。
私の今の感覚では、短くするのはいいけど、やっぱりリズム感的に微妙な気がする。

主観と事実が混じった体で感じる違和感、いくつになっても時間開けてみることでしか分析できないの、ほんと不思議。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。