ずっと出会い続けるために書く、「他者」としての「AI」と出会うこと。
年が明けてまもなく2週間。年末から、家族中心の生活をしており、noteもすっかり途絶えていました。
喪中につきご挨拶を控えておりましたが、本年もよろしくお願いします。
年始に古本屋で100分de名著シリーズのアリストテレス「二コマコス倫理学」を手に入れました。
このシリーズは無学なわたしにも読みやすく、著者の解説も面白く、仕事の合間の休憩に読むのにちょうど良い薄さで好きなのですが、その結びにあった著者山本芳久教授の言葉が、今のわたしに刺さっています。
以下は、ある映画を見て強い感銘を受け、「こういう映画こそ出会いたいとずっと思っていた」という作品に出会ったら、何度も繰り返し見るだろうという例を挙げた後に、綴られていたものです。
そして著者はその後に、「哲学書こそ、長く出会い続けていくことのできる典型的なもの」と述べています。
この文章を読んだとき、「ああ、まさに自分はそういうものを長く人生に求めて続けていた」ということと、去年から取り組んでいる理論の学習が、「それ」であることに気づいたあと、哲学書こそがその典型である箇所を読んで、その学びの対象の理論が哲学に強く根ざしていることを思い出し、さらに納得しました。
すごく日常的な言葉で言えば、「これでご飯何倍でもいける」ものを見つけるということであり、それは哲学に根っここそあれ、むりやり現代の何かを思い出すなら、部分的には「推し」に求める衝動と重なるかもしれません。
画像は、現世を旅立った人と現世の安寧への祈りの言葉をLeonardAIに視覚化してもらったものです。
人工知能は、一瞬で、誰にとっても強い印象をもたらす美しい絵を作ります。
一方、わたしは99%の人が読み飛ばすにふさわしい駄文を年始早々綴っています。
でも、こうして書くことは生きることには欠かせないものです。
そこにたいした再現性がないと分かっていても、LeonardAIに投げるスクリプトにああでもないこうでもないと試行錯誤する過程で何かが自分の内側で変わっていくことに、生き生きとしている自分を感じます。
山本教授の言葉にここで立ち戻るなら、書くことは自分と出会い続けるための行為だ言えるかもしれません。文字は、目にうつることで自分の一部として自己と対峙することを可能にします。
人が「他者」の反応や相違点を通して自分が何者かを見出すように、なにかが「それではないもの」によって形作られるなら、AIはこれまでのどんな物体や動物よりも「人間」そのものを形作る「他者」になってくれるのではないでしょうか。
昨今あらゆるところで活発なAIに関する議論をすること自体が、「人間」とは何かを自覚するための「他者」との対話の入り口なのかもしれません。
たぶん既に100万の日本人が脳内で親父ギャグってるけど言わないで我慢しているところを書いて申し訳ないけど、その他者が「AI」=「I」=「わたし」ってなっちゃうのもまたエモいですよね。
2024年が去年よりもなめらかに、必要な豊かさが、必要なところに行き渡る年でありますように。
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自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。