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マウンティングなんかじゃない。「幸せです」「感謝しかない」みたいなポジティブ発言がSNSでは凶器になりうる理由がやっと言語化できたので書いておく。

SNSが人の幸福感を下げるという報告や主張は、もはやそこそこ知られていると思う。

そして、その情報ソースが研究結果であれ、自分自身の感覚であれ、それでもSNSとお付き合いを続けている人も多いと思う。

サクッと書きたい日記扱いの投稿なのでソース検索は省くけど、何かの研究結果で分かったSNSが人の幸福感を下げる理由は、匿名のネガティブ発言が溢れているからというより、人の幸せな発言を目にすることが増えるからではないか、という主張だったと記憶している。

他人の幸福な日常を伝える投稿が、人のメンタルにネガティブに働くという事実から推察される主張は、内面で起こっている話なので、本質的には客観的に一般化することは不可能だ。

だから、「人の幸せな発言がどうネガティブに働くか」というところについては、どこまでも仮説のはず。

にもかかわらず、それは婉曲的な「幸せマウンティング」だ、あるいは間接的な「自己アピール」であり、隠された(あるいは無自覚な)意図によって行われているからだという主張は、たしかにそうかも、ともっともらしく感じられる。

それは、幸せな投稿を目にすることで、競争心を掻き立てられたり、敗北感を感じたりした体感が多くの人にあるからなのかもしれないし、そうした意図を持って投稿したことがあると、わが身に覚えがあるからなのかもしれない。

実際、楽に稼げる系のプロモ投稿は、「この仕事をするとこんなに楽しい生活が手に入りますよ」という戦略に則ったものだから、そういう投稿は一定数存在すると思う。

しかし「部分的にその通りであることが、全てにおいて本質的にそうであるはずだ」と見積もるのは、世界が全てそのように見える色眼鏡を装着する行為でしかない、けっこうアブない行動であるようにも思う。

じゃあ、投稿する人の意図ではない、SNSが持つ本質的な暴力性はどこにあるのだろう。

わたしのスタンスでは、暴力性のような「性質」は、あるものの一つの現れ方で、「本質」にはなり得ない、というのが答えではあるんだけど、

この「潜在的に暴力的に機能しうる」という点に限って言えば、それは

「同じ体験を共有していない」ことにあるんじゃないか、と思う。

「おいしいね!」「たのしいね!」「しあわせだね!」「もう感謝しかないね!」

SNSに限らず、これらの言葉の多くは、心の底からの純粋な感想として口から溢れるものだ。

それが本音であると同時に戦略的に使われることは、当然リアル世界でもあるだろう。つまり、どういう意図で求められるかは、場に依存しない。

だから、SNSで「純粋な感想」として述べられることも当然想定される。マウンティングでもない、自己アピールでもない、ただの独り言メモ、あるいはそばにいる人と分かち合いたい衝動で溢れた可能性は、常にある。

リアルの世界であれば、それが目の前にいる人と、感想の対象となっている同じ体験を共有している場面であることは多い。

わたしたちの感覚は、日常会話の比重がSNSに傾いた状態で最初から育っていない限り、リアル世界でチューニングされているから、その感覚で文字としても言葉は溢れることはあるだろう。

だけど、SNSでその言葉を受け取るのは、どんなに身近な人であっても、その瞬間同じ釜の飯を食べていない、同じ体験の中にいない相手だ。

その感想は、けして同じ場で同じものを分かち合う瞬間のようにはたらくことはない。

もちろん、純粋に相手の幸せを願いあえる関係性で、自分が窮地に立たされているわけでもなければ、旅行のおみやげ話を聞くように、ワクワクした気持ちでそれらの話を聞けるだろう。

だから、常にネガティブに働くわけじゃない。

ただ、私が言語化できたからメモしておこう、と思ったのは、自分がそれを文字にしているときに動いている「分かち合いたい衝動」は、その衝動が前提としている「同じ体験」がない以上、「ずれて機能する」、ということだ。

SNSでは、同じ体験を共有しているときのような気持ちでこぼされた言葉で溢れている。

でも、それらは全て「おみやげ話」にしかならない。

個人的な感覚では、SNSがもたらす疲弊感は、それが日常の話であれ、それがおみやげ話である以上、受け手側にとってはハレの話的に機能する話の数々とケ的な自分の生活とのギャップに持ってもたらされるからだけでなく、

「共通体験」ベースで発信された投稿に対して、同じくそれがおみやげ話でしかないために、期待に応えるようなリアクションが得られないから、という側面もあるからだと思っている。

facebookがMetaになり、メタバース空間を作ろうとするのは、もしかしたらこの本質的な欠如に気づいているからかもしれないし、そうでないかもしれないけど、

今SNSを通して人付き合いをしている当事者としては、SNSのネガティブ側面をうまく付き合うために、マウンティングだとか自己アピールだとか、表面的な表現の問題に配慮したり、敏感になって悪意ない人の意図を勝手に勘ぐった挙句、人との縁を遠ざける、さらに疲れる道に進むよりは、

「おみやげ話」とわきまえて接し、「共通体験」を持つ機会を意識して作っていく方向性で補う方が、おそらく健康的だと思ったので、ここらで言葉にしておきたいなと思った。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。