stand.fmでnote記事をAIで音声化できる機能を使う前提で、記事を書いてみた。
こんにちは。フォトライターの文字じゃ残せない話のゆっかです。
このチャンネルは、7月半ば以降、子どもの夏休みの始まりと共に、約1ヶ月半、仕事以外の個人的な時間を取れなくなることに備え、現在内容を模索中です。
本日は、実験的に最初からstand.fmのAI音声読み上げ機能で音声コンテンツ化することを前提にした文字投稿をしてみようと思います。
チャンネル名が、「文字じゃ残せない話」なのにどういうつもりかという試みではありますが、何卒おつきあいいただけたらうれしいです。
これまで、わたしは文字では文字だからできそうな内容を、語りでは語りだからできそうな内容を考えて、投稿してきました。
振り分けの尺度としたのは、考えがある程度まとまっているかと、今考え中のことか、です。
文字は、視覚的に過去と未来が映り込むので、語りに比べて受け手がコンテンツに対して主導権を持っている、俯瞰的な立場にいます。
一方音声は、戻ったり先に行ったりすることはできますが、一寸先も前も闇。現実世界と同じく、時間の流れに対しては受け身の状態になります。
だから文字は書き手に批評されやすい一方、音声は書き手に洗脳されやすい。と、言い換えることもできると思います。
なので、まとまりのない話は文字だと読み手の俯瞰しづらい、イコール負荷が高過ぎ、まとまり過ぎた話は音声では洗脳的、というか強すぎると感じたからです。
そうですね、何と言ったらいいのでしょうか。
あくまでこれはわたしが感じていることで、どこかの有名な大学の教授が実験して権威ある専門誌で発表されたエビデンスを背負ったものじゃない、
雑談程度の話、なんですけど…
そういう、聞き手にインプットとインプットの合間に、主体性を取り戻すためのクッション、つまり、「間」を残さないと、
音声って、無批判に鵜呑みにされやすい、表現形態だなって思う、わけです。
今日は、音声コンテンツになる前提で書いています。
だから、クッションを多めに入れていて、自分で書いていながら、すでに気になるくらい、話が間伸びしています。
映像教育の難しさ、本じゃなきゃだめだ、という声は、昔から広くありました。本の方が批判的に物を見られる、という主張も、どこかで見たような気がします。
それがわたしがさっき指摘した「本は視覚的に時間を俯瞰的に捉えられるから」という、時間の主導権の問題だと、その人たちも思っているかは分かりません。
けれども、音声コンテンツで、どこか文字でしているようなロジカルな言葉運びで、隙間なく自分の主張を敷き詰めるのは、聞き手の脳を無批判で受動的なモードにしてしまう気がして、
もし今後も文字で投稿したことを、音声にもする、という方向性で進めるなら、この文字投稿でこれまで採用していた「で・ある調」はもとより、ここで語られていないことに気がつかないような文の並べ方をしないように、心を配る必要がありそうだなあと感じました。
もちろん、これが広告のための文章なら、その危険性を武器として積極的に使い、音声コンテンツで自分の商品を売り込むための主張をびっしり敷き詰めるのが王道なのかもしれません。
でも、そういう文章は、そのメカニズムに仮説であっても気づいた人間には、もはやできなことだと思ってしまいます。
なんていうか、だってされたくないじゃないですか。
されたくないことを分かっててする、人を騙している自分から目を逸らして、自分は人を騙していない、と自分を騙しているのに、満たされた人生って、あり得ないと思うんですよね。
ただ、やっぱり文字で見ると長い、長ったらしい。
むしろ、こちらでは余計な情報が散らかっていることで、時間を俯瞰できるという読者の主体性を奪ってしまっているように見えます。
うーん、難しいですねえ。
でも、こういうのもやってみてわかること。
やって見てわかったことを携えて、明日はどうしようか、考え中です。
本日も、最後までおつきあいいただきありがとうございました。
あなたの今日が、最高の輝かしい1日でありますように。ではまた!
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