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「毒親」「蛙化現象」…神話化する心理学用語を越えて

今日は言葉を選ばないと難しいけど、自覚しておきたいなあということを文字にしておこうと思う。

それは、トラウマ、アダルトチルドレンに始まり、毒親や蛙化現象という言葉のポップ化を見るに、

心理学用語が、今の自分の問題を外在化するための神話と化していることだ。

それは自分と問題を切り離し、信念と化しているネガティブな自分史を、あたらしい肯定的な物語へと再編集する、ある種のナラティブセラピーと言えるかもしれない。

けれども、ここで起きているのは、外在化はできたものの、あらたなネガティブなストーリーで、ナラティブセラピーが目指すような状態は達成されていないように見える。

毒親で言うなら、結局物語の主人公「ダメ人間」というラベルを自分から親に付け替えただけ。

だから、死にたいと思っていた人は、殺したいと思うようになるだけで、変わったのは矢印の向きのみ、感情は昇華も変容もしない。

YoutubeコメントのペンネームやSNS名にも「毒親育ち」とつけている人を見かけたけど、それを公言するのを目にすると、物語の主導権を失った状態で物語を再構築してしまっているように見える。

なんて言えばいいか。いまの「どうする家康」的に言えば、家康のペンネームが「人質育ち」「信長の犬」とつけているようなものだろうか。

もし、彼がそのような神話のもとに自意識を建築していたら、まず江戸幕府の創始者としてのタイムラインには乗れなかったと思う。

多分今週の展開だけど、もし過去の物語の主導権を他の人に握らせるのだとしても、ポジティブ展開に歩みを進めるなら、それは「引き継いだもの」としての「義元・瀬名の遺志を継ぐもの」であるはずだ。

わたしは毒親育ちではない。
だから、そのストーリーに合点がいくような苦しい体験をした人が持つ、その忘れることができない恐怖や傷をポジティブな物語に書き換える困難さがどれほどのものか、想像が及ばない。

けれども、せっかく外在化ができたのに、その境遇を自虐して終わるようなストーリーに留まる苦しさは、自分がいじめ経験を自分の現在のダメさの原因とできても全く楽にはならず、むしろ憎しみや怒りに押しつぶされそうだったことを回想すると、どれほどのものかと思う。

物語は、まだ、どんでん返しができる。
「毒親育ち」から一歩進んで、「毒を制する者」にもなれる。

ああ、もうこれ以上文字が出てこないけど、ポップ化した心理学用語が引き込む、袋小路の神話から、どうかそれぞれの自分の物語を描いてほしい、そう思った。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。