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「大人になる」って多分、「死にかけて幽霊が見えるようになる」ことからはじまる物語を生きるってことかもしれない

突然の事故などで死にかけたことがきっかけで、これまで見えなかったものが見えるようになることではじまる物語は、きっとみんなどこかで出会ったことがあると思う。

具体的に羅列はできなくても、このやたら「あるある感」が湧き上がってくるストーリーの型のようなものは、おそらく実際の人生の型にも当てはまるからなんじゃないかという、勝手な仮説を持っている。

つまり、現実にも思い当たる節があって、それがファンタジーとごっちゃになっているからってことでもあるんだけど、死にかけた経験がある人も、幽霊が見える人も、そういう人が身近にいるという人を含めても、そんなにいないんじゃないかと思う。

わたしもそんな経験を持たない一人なんだけど、この「死」を「大失敗」や「挫折」「心に大きな傷を負った」体験に拡張するなら、きっと多くの人に思い当たる節があるのではないだろうか。

それなら、わたしはその一人だ。

見えるようになったのは、もちろん幽霊ではない。

でも、つまずき、傷つき、弾き出され、崩れ落ちた場所から自分がいた場所を振り返ったとき、そこにいたときには見えなかったものが見える自分を発見することは、度々あった。

それは、社会の構造だったり、繰り返されているパターンだったり、影響し合う関係性だったり、そこで起きている表面的な出来事の内的なはたらきと言い換えることができるかもしれない。

それが見えるようになることで、もう以前のようには世界を見られないし、以前のモチベーションでは駆動できない自分になっているから、物語はリセットされ、そこからあたらしい物語がはじまるのだ。

そして、それが大人になるっていう物語なんだろう、と思っている。

そこで冒頭で言った「死にかけて幽霊が見えるようになる」型は多くの人に馴染むんだろうという飛躍した仮説に至ったわけで。

まあ、深く傷ついたことをきっかけに、今まで見えない方が良かったことまで見えちゃうようになることは、幽霊が見えるようになることよりずっと過酷かもしれないけど、結構おもしろいし、だからこそできることもある。

親としては子どものそういう過程を見守るのは正直しんどいと思いつつ、そこからはじまる物語の層の向こう側にある、大人にしか見えない世界を、いつか一緒に見られたらいいのにという、ふたつの親のわがままを行ったり来たりしながら、今日も掃除機が届かない埃を時々無視して掃除をしている。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。