「体験」と「実践」という防衛ライン
写真を使ったワークショップとかを今までやっておいて何だけど、「体験」とか「実践」という言葉があまり好きになれない。
自分のイベントの内容を組み立てるときも、広告文を考えるときも、このふたつの単語が頭に浮かぶたび、ちょっとイラついていた。
というのは、このふたつには、取り組む対象と自分との間に、安全な距離を取ろうとする、ご都合主義が滲み出ているように感じられるからだ。
「ちょっとやってみただけ」
「あくまで、道具として使っているだけです」
っていう空気。ああ、本当にイヤだ。
・・・
この二つの言葉が使われがちな領域は、「自然」や「芸術」など、日常の外側にある領域である。
子どもにとっては、料理も「体験」、虫とりも「体験」がしっくりきてしまうのは、何とも言えない気持ちにもなるが、「ぼっとんトイレ体験」はもはやありそうでも、「水洗トイレ体験」なんて言葉は機能しなそうなところから、その辺のニュアンスは伝わるんじゃないかって思う。
つまり、あまり身近ではないものに対し、お試しでやってみる、という感じがこの言葉にはあるのだ。
しかし、これらの領域=非日常の価値は、どこにあるのだろう?
それは、習慣に守られた日常にはない、危険を伴う身体感覚であると思う。
料理であれば、包丁、火。
虫とりであれば、虫からの反撃や遭遇する可能性のある危険生物、
ぼっとんトイレであれば、便器に落ちる危険。
とりまとめれば、日常から排除された「死の恐怖」である。
ドキドキ、ヒヤヒヤしながら、その一線の境界を歩く感覚。
そこで呼び覚まされる、自分で自分を動かす意志と責任のエネルギー。
それは、どんなに体が反応しても安全バーで守られ、目を瞑っていれば終わる絶叫マシンとは一線を画すものだ。
この体験をしてほしい!とイベントを主催した人、すなわち越えてはいけない一線の境界まで行ったことで、何かを得た人間なら、それを知っているはずである。
そうでありながら、社会にその価値を伝えようとすると、顧客を危険にさらすわけにはいかないので、「体験」や「実践」という安全装置をつけざるを得ない。
ああ、この矛盾、ジレンマよ。
「たのしい体験でした!」「実践しています!」という感想の、なんと苦いことか。
多分誰も読まないだろうから白状するけど、本当は、非日常に自分を投げ込むなら、安全を保証されたサービスじゃなくて、ちょっと一線越えちゃうくらいの、とても体験とか実践とは言えない、イベントではない自分史の1ページになるような経験であってほしいって願ってる。
だってそうじゃなきゃ、自然も芸術もただのレジャーかエンタメなんだよ。
それも別にいいんだけどさ、わたしがやりたいのは、それじゃない。
これ、実は同じ矛盾抱えてやってる仲間がいたら、こっそりハートください。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。