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「わー、パンケーキ?納豆食べる!」

上記文字列は、けさの台所で次女が放った言葉である。

淀みないポジティブなテンションで、だ。

わたしはパンケーキを焼いていた。
余ったら冷凍して時間がないときの備えにしたいので、二袋一気にボウルに入れて、マシーンのように量産中だった。

栄養バランスの偏りをこっそり補うために、ミロと大豆プロテイン(飲もうとしたら不味すぎた)が混入している、いつものレシピ。

次女は、このパンケーキが嫌いなのだ。

次女はもともとご飯派で、こういう混入物には敏感なたちである。
一方、長女は全く気にしないパン派で、よろこんで食べる。

栄養が気になっているのはどちらかというと長女なので、わたしはそれを知っていて、パンケーキを焼いていたのだ。

・・・

わたしはかつて、この逆方向に個性が強い子どもたちに対し、それぞれに合わせてきた。

朝食のテーブルには、ごはんとパン、のどちらも並んだ。

一人が出かけたいと言えば、もう一人は家にいたいと言う。お土産を買おうかと言うと、一人は欲しいと言い、もう一人はいらないと言う。お腹が空くと、ひとりはお菓子を欲しがり、もうひとりは食事を取りたいという。一人が同じものがいいといえば、もう一人は真似されるのは嫌だと…

ええええい!!!もういい!!!!

・・・

端的に言って、母はもう疲れたのだ。

もう、わたしが用意したものが嫌なら、自分で他のを出して食べよ。
意見が一致しないなら、提案は却下。

よき母親の仮面を叩き割り、社会の代弁者としての父親の鎧を装備した。

うちは、ずっと単身赴任で、父親不在の家庭である。
器用な親なら、父と母を同時にやることもできるのかもしれない。

でも、仕事の顔で過ごす時間が増えるにつれて、わたしは母親として振る舞うことが難しくなっていった。

これを間違った子育てだとか、ひどい親だと言いたい人はいっぱいいると思う。こうすれば、うまくいきますよというアドバイスも無数にあるだろう。

でも、もはや理想の子育てを探していない自分にとって、ハウツーはもうおよびではなくて、ただただ今目の前で起きていることを、じんわり味わっている。

「わー、パンケーキ?納豆食べる!」

朝の食卓にパンケーキが並ぶことへの休日感へのワクワクと、でも自分は別の食べたいものを食べると軽やかに宣言するという次女の放つ空気に、我が家の今が凝縮されているように思って、じんときた。

それは、ていねいな暮らしのように憧れられる家庭でもなければ、親子で才能を発揮している、かっこいい憧れに値するような親子でもない。

でも、わたしはこの感じが好きなのだ。
こんな親うんざりと、もしかしたら早々に子どもが出ていくかもしれないことも含めて。

と、保存用のパンケーキが、ほとんど残らなかった計算違いに遠い目をしながら、そのしあわせを噛み締めている。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。