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「言えないこと」の編み目をくぐる

後ろめたいことをしていなくても、言えないことはある。

子どもの頃は、後ろめたいことをせず、真っ当に生きていけば、隠し事なんてしないで済むと思っていた。

誰かの世話になっていることが当たり前だったから、自立して自分で自分の世話をできるようになれば、誰にも文句を言われないで済むと考えていた節がある。

周囲の期待に応え、他人に迷惑をかけず、善意をもって正しい情報に沿って客観的に判断したなら、なんでも自信を持って話せるはずだ。

でも、思ったことを思ったまま話せるのは、後ろめたいことがないからじゃなくて、自分と同じ価値観を持った似たような他人に囲まれていたからに過ぎなかったんだと、今は思う。

大人の世界は、言えないことばかりだ。

苦境に立たされている人の前で、週末のレジャーの話はできない。

結婚を控えている人の前で、家庭のいざこざの話はしたくない。

同じ夫婦の問題でも、浮気、家事負担、義両親の話と問題の中心は多岐にわたるし、同じ子どもの話題でも一方が留学費用、もう一方が学力不振で悩んでいるなら、共感するのは難しい。

家族に関する悩みも、相手が幼子でなければ、プライベートを勝手に晒すわけにもいかない。家族ぐるみでの付き合いなら、夫の不満を言ったところで、相手も反応に窮するだろう。

かといってfacebookやInstagramなどSNS疲れが示すように、一方的に自分の子どものすごさや、今日食べたおいしいもの、仕事の楽しい側面ばかりを井戸端会議で発表されても聞いた相手の幸福感にはつながらない。

じゃあ、なにを話せばいいのだろう?

つまるところコミュニケーションはコンテンツではなくてそれを載せている乗り物の方にあるんだろう。

あなたと同じだと思いたい。

つながっていると感じたい。

わたしだけじゃないと思いたい。

あなたといられてうれしいと伝えたい、感じたい…。

お互いが思いやり、賢くなればなるほど、相手にとって最善の自分になろうとするから、お互いの姿が見えなくなる。

これについて、こうすればいいと結論を書くこともできると思う。
現代社会を嘆くという着地をすることもたやすい。

でも、なんだろう。

こうやってなんらかのベストプラクティスか批判に着地させずに、「言えないこと」の網目をくぐる、そのときそのときの最善を探し続けることが、人とちゃんとつながる、生きるってことだと思うんだ。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。