見出し画像

悲しき所帯

「わたしにはあの人(彼ら)があんなことをする理由がわからない」

から出発して、

「きっとこうだからに違いない」

とメカニズムを明かそうとする自分自身の心理的なメカニズムに無知であろうとするメカニズムを自分自身に感じるとき、どこかみすぼらしくもうんざりした気持ちになることはないだろうか。

実例で言うと、

「子どもにこんなひどいことをする親の気持ちがわからない」

という、加害者と自分は似ていないことを証明する=「私は無害」コメント(出発点)をした後で、

「偉い学者に言わせると、きっと彼らもまた親にひどい仕打ちを受けたので、それを無意識に模倣してしまうらしい」

と、相手を悪役にしすぎない、これもまた自分にブーメランしないように、権威と他人の言葉で武装した理由(メカニズムを解き明かそうとする)をつけ、

社会で起きている問題は、他人事であり自分が加害者にならない安全基地を確保した上で、「理由がわからない」という不安を掻き立ててくる情報に対して有意に立つことを達成する(自分自身の心理的メカニズム)のは、

俯瞰すれば自己防衛のためであることを暴露してしまうと、同じように情報を処理している全員(無知であろうとする)を地獄に叩き落とすので、悲しいニュースを咀嚼する井戸端会議の空気に迎合している自分にみすぼらしさを感じて、うんざりする、

みたいなことだ。

もう、今となっては井戸端会議をすることもないし、そういう忖度が求められる場からは自然とお呼ばれすることもなくなったので、実例にしちゃうけど、

「気持ちがわからない」という「セリフ」を発声するとき、そこに演技っぽさ、白々しさを感じている人は少なくないのではないかと、思っている。

わたしは、物心をついた頃からお話を書くことが好きだった。

そのなかで体感したことは、全ての人格の可能性の種をわたしたちは精神としては内在しているということだ。

橘玲氏の「スピリチュアルズ」という本を読んだとき、その確信は強くなった。

というのは、彼の本にはビッグ5と呼ばれるパーソナリティ分析で最もメジャーな分類方法は、脳内で分泌される物質のバランスと、社会でどう自分が位置付けられるかに規定されているというようなことが書かれていた。
(これそのままの文はなく、うろ覚えからの抽出です。厳密には意味違ったらごめんなさい)

つまり、どのような身体と関係性によって人格は形成されるということ。もちろん、記憶もこのスタート地点から発生する経験の反復に位置付けることができるし、人格に影響を与える大きな事件も、それに基づいてどう認知したか、あるいはどう身体的関係性的影響を与えたかに分解できるから、この二つの要素のなかに含めることができるだろう。

これを「お話づくり」に戻すと、キャラクターの見た目と相関図、彼らが置かれる社会を綿密に設計すれば、お話を書く「神」としての自分は、全てのキャラクターに共感できるし、その中に入って、そのふるまいを自ずから発生させて文字に書き起こすことができる。

お話を書くことに夢中になったことがある人なら、書いているキャラクターに次々と憑依して、全てのキャラクターが自分であると感じたことがあるのではないだろうか。

もちろん、いろんな物語の書き方があるから、そうでない人もいるかもしれない。でも、「勝手に手が動く」系の書き方をする人の作品は、悪役も主役も、なんならモブまで全部作者。少なくとも、わたしはキャラクターに作家の影を感じるし、そのように作品を見ている。

そういうわけなので、人間が起こした事件である以上、あらゆる人間に対して、わたしは全部自分にもありうる経験だと思って人を見る。

もちろん、違う身体と関係性の中に埋め込まれている以上、「こう感じたからこうしたのだろう」という見立ては妄想にすぎない。

けれども、「ありうる」という前提が常にある。だから、

「わたしにはあの人(彼ら)があんなことをする理由がわからない」

という言葉が、しらじらしい「セリフ」に感じてしまうのだ。

理由がわからないのは、当たり前だ。

なのにわざわざそれを言葉にするのは、なぜ?

「わかろうとする」こともできるのに、「わからない」と切り離して蓋をするのはなぜ?

いったい何に蓋をするのか?

それは、わたしも同じ身体性、関係性のなかに埋め込まれれば、そうなってしまうこともありうるかもしれないという予感だ。

それは恐ろしいことだから、切り離して蓋をして、自分は安全だと感じたい。自分もその可能性を秘めた害をなすかもしれない存在ではないことを示したい。

それに気づいているくせに、その蓋を蹴飛ばせずにいる。

そんな自分がみすぼらしくて、うんざりする。

なぜ、こんな臆病者になってしまったんだろう。
とんがっていることがいいことではないけれど、こんなの自分じゃない。

当時はそう思っていたけれど、

ああ、それは、

所帯という「舞台」を持ち、「家族」というシナリオを「親」という役割で演じることで、「子」を育むという文化の守り手になったから。

子どもが思春期に入り、インストールされたOSを自力で書き換える力を手に入れるまでは、初期OSとしての神話を語るのが「親」の仕事だからだ。

いま、そう振り返っている。

子どもたちは、ふたりとも思春期に入った。

だからもう、書いちゃうけどね。さすがに外では口にできない。

おんなじふうに感じてる人がいたら、うれしいなあ。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。