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note、Threads、Twitter。プラットフォームの守護霊

Threadsインストール2日目。
場の持つ不思議な力を感じている。

なんだろう、おなじ短いテキストベースの場所なのに、なんかTwitterに「いる」ときと、頭の使い方が違う。

ほら、地元に帰ると人格変わるとか、旅先で同じテレビを見ても違う番組みたいに見えるとか、ないだろうか?

よくわからないけど、場が変わることで、物の見え方が変わってしまう。ああいう感じ。

デジタル空間にもUI設計を越えた、そこ特有の磁場のようなもの、ちょっとnoteに合いそうな言葉で言うなら「ゲニウス・ロキ」みたいな?

そう。Threadsに「いる」ときは、「ゲニウス・ロキ」って言葉は頭に浮かばない。Twitterは浮かぶ気がする。

身体感覚で言うと、Threadsはその世界に「入っている」感じ。俯瞰する意識が働かない。Twitterやnoteにいるとき、わたしは少し「外にいる」感じだ。でもこのふたつは同じじゃない。Twitterはさまざまな川の奔流を外から見ている感じで、noteは段々池か山奥の湖畔に佇んでいる感じ。

今、IDMというところで、成人の認知的発達にフォーカスした弁証法思考のトレーニングを受けている。それで日々「思考」にどっぷり使っている。

もう、その世界が広く深すぎてとにかく面白い。一方で思考に集中することで、反対に思考以外の「視点(感受点)」に思考が大きな影響を受けていることの大きさにも、気づくようにもなった。

わたしたちは多分、この思考以外の感受点によって、そもそも思考するかどうか、何を思考するかを規定されている。

その点で見るとTwitterもThreadsも思考させるような場の力はないように感じる。

代わりに別の刺激、心地よさがあり、そこでしかできない表現がある。

noteは、思考させる場の力がある。

noteを人に勧めたとき、何度か「アメブロは書けるけどnoteは書ける気がしない」というような返事をもらったことがあったけど、もしかしたらこの、アメブロにはない「思考させられる圧」を感じていたのかもしれない。

そのときは、なんか分かるようなわからないような感じだったけど、この場の守護霊との相性の話として見ると、納得できるような気がする。

よく「文字は紙とペンで書いた方がよい」と聞く。私も両方するので、その違いは分かる。紙とペンだと、文字と絵や図の境界がなく、筆記用具や紙のサイズという制限が、うっすらとしか感じ取れないイメージをいい具合に煮詰まらせてくれる。

しかし、それを「着地させる力」は弱いと感じる。いつまでも「途中」な感覚だ。

他方noteには、この思考させながらも、最終的に着地させる圧力がある。
書くことに集中できるUIの力は絶大だ。でも、それだけじゃない。

noteのゲニウス・ロキ的な守護霊、と形容するしかない、「場」の影響を確かに感じる。

日々投稿するときに、ここではなく別のエディタで書いた文字を貼り付けようとは思わないのは、この「場」の力とリンクして文字を打つことが心地よいからだ。

ほら、なんかもう着地したくなってきた。

noteの神さま、いつもありがとう。わたしが書き続けられるのは、あなたのおかげです。



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