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インフルエンサーというラガードがもたらす、競争社会の終わりと影響力という武器を捨てる日について、推敲なしで思いつくままに書いた文章。

「影響力の武器」という本が発売されたのはいつだっけ?
ググったら2014年でした。
 
岡田斗司夫が「評価経済社会」を出したのは…、
これは2011年。
 
これら本を読んだせいかは忘れたけど、2017年くらいのころ、下の子が幼稚園に入ったこともあって、SNSやサイトを立ち上げて、そういうものを獲得することにチャレンジした時期がありました。

「 1日○回ツイートする」とか、どの時間帯に投稿すればいいかとか、拡散されやすいジャンルや言葉の使い方、拡散しやすいキーワードの選定方法とか、そういうマーケティング的な知識を色々なソースから学習しました。そして、違和感感じずにできる物に関しては、取り入れたりもしました。

でも、こういうシステムのアルゴリズムとか、人間の脳の持つ心理学的な仕組みを利用して人の興味を集めるということは、一種のハッキングあるいは心の平和の略奪行為とも言えるわけで、これをマスターして使いこなすことで繋がる相手や仕事を得ることは、自分の本質的な幸福からむしろ遠ざかるようにも感じられました。

そして何より、情報は、受け手が「その情報を節度を持って扱える」あるいは「他人の考えを相対的・客観的に見ることができる」状態でなければ、一種の刺激物としてしか意味をなさず、ときに炎上したり、社会に悪影響を与えることも学びました。

多くの人が競い合って限られた「注目」という資源を奪い合っているSNSという戦場で、たしかに影響力は文字通り「武器」ですが、

自分がそこに飛び込んで見てわかったことは、この影響力は実はフォロワーが何人いるかとは無関係だということです。

なぜかというと、武器を持っているのはアカウントそのものではなく、投げ入れた情報の塊、「投稿」だからです。

フォロワーの多いアカウントはあくまでその他の人の目への「遭遇させ率」が高いだけです。

この投稿はウイルスのようなもので、文字通り刺さる言葉であれば、戦闘力が高い「武器」となります。

そしてその武器が強力で、強く突き刺されれば突き刺さるほど、これも文字通り「拡散」されて、ウイルスのように広がるなかで、高い「遭遇させ率」を持つアカウントを突き刺し、拡散されることがあれば、社会にさえ大きな影響力をもたらしうるのです。

「遭遇させ率」の高いインフルエンサーは、強い武器を使ってフォロワーを増やした果てに、「遭遇させ率」が一定レベルを超えることで、「武器」が意図を超えて遠くまで飛び、諸刃の剣として襲ってくるようになると、オンラインサロンという壁を作り、

ただここで注意しておいた方がいいことは、オンラインサロンは、「情報を節度を持って扱える」あるいは「他人の考えを相対的・客観的に見ることができる」状態の人よりは、むしろ設立者の放つ情報を無条件に受け入れて、感情的になれる人間の方が設立者にとっては望ましいということです。

彼らがやったことは、強い武器を使って、より弱いものを自分の敵と味方に分裂させたあと、自分の味方だけを囲い込んだということ。

「より弱いものを分裂させて力を削ぐ」ことは、権力者が求心力を保つための常套手段です。

つまり、今起きていることは、かつては世界レベル、国レベルで起きてきた権力構造が個人レベルまで「降りてきた」ということです。

経済をちょっとかじったことがある方には、あらゆる市場や製品にはライフサイクルがあることはご存知かと思います。

アーリーアダプター、なんたらかんたらー、さいごはラガード、のあれです。

知らなくても、「プロダクトライフサイクル理論」あるいは「イノベーター理論」でググれば出てくるので、1分程度時間が取れるなら、この先これを読んでいる誰もが知っている情報と言えるでしょう。

どんなものにもライフサイクルがあり、いっときはものすごい数が参入して競争が行われたあと、最も保守的な層が入ってきたら、もう終いだ、という話です。

これらの理論はなぜか「キャズム」(これも一時期流行語になった)を越えることに焦点が当てられていたのですが、ここでは特に衰退期のサインに注目したいと思います。

つまり、一番保守的な層が参入したら、終わりっていうところ。

株式市場の格言に、「主婦が買い物カゴもって株を買いに行きだしたら天井」という言葉もありますが、これも似た考え方ですね。

株式はNISAとかでサラリーマンや主婦、さらには子ども名義まで買わせようと推し進められた時点で、金融経済は終わりのフラグが立っていたと言えます。今、実際に崩壊が始まっています。

そしてこれは私の個人的な意見ですが、「インフルエンサー」こそ、実は最先端の新しい業界のはじまりではなく、ピラミッド形式の権力構造を生み出す、競争社会の終わりだと思うのです。

インフルエンサーは横文字で一見すると新しく見えますが、視点をずーっと高く上げると、単なる市民です。

いっときは落伍者であったりして、権力よりもむしろ反権力を好んだような人たち、言ってみれば競争社会のラガードです。

その彼らが武器を持つことで権力構造のトップになる機会を与えられ、戦いが過熱しきったところで一斉にそのピラミッドを築き始めた。

これは、競争社会終了のフラグではないでしょうか。

「権力は情報をゆがめる」、というような言葉がユヴァル・ノア・ハラリ氏の 「21Lessons」にありました。(Audibleで聞いたので、一字一句合ってるか確認が難しく、あいまいですみません…)

「ポスト真実」とか、「フェイクニュース」という言葉をよく聞きますが、このハラリ氏の言葉の視点からみると、それは市民が権力者になってしまったことが一因かもしれません。

わたしの座右の銘は「群盲象を評す」ですが、これはみんな目隠して象を触っているために、象の事実を表すことしかできないという意味です。

今溢れている情報は、どれもが一部の事実を含んで入るけれど、それぞれの小さなピラミッドを維持するための情報を「正しいこと」とする核を持って発信しています(いわゆるポジショントーク)。

また、どこかのピラミッドに属する人は、そのなかの情報と不協和を起こす情報は「フェイク」だとか「バカ」扱いされるので、象を触れている他の人の意見を取り入れて議論することが難しくなります。

わたしたちはみな、目隠しをしながら象を触るしかない人ですが、「誰が正しいか」を探すことをやめ、できるだけ多くの人の声を聞き、そのパズルをつなぎ合わせることができれば、その動物が何であるかを知ることができるでしょう。

しかし、それは自分の触覚こそが正しいと思っている人や、象を触っている誰かの作ったピラミッドの内側にいる人にはできないのです。

いま、感染症に打ち勝つためにさまざまな試みがなされていますが、この感染症の一番厄介なところが「正体がつかめない」、まさに「象」状態なところです。

今は手洗いうがいと外出自粛が「正しい」ことかもしれませんが、フェーズが変われば、真逆のことを求められたり、全く別の犠牲を払う必要が出てくる可能性もあります。

そのときに、「言ってることがコロコロ変わる」と怒りを覚える人もいるでしょう。でもそれは象の別の側面が明らかになったか、別の側面を触れている人の発言が影響力を持つようになっただけである、という視点があれば、混乱を退けて、心の平和を保つことができます。

確実な対処法や全てを解決してくれるワクチンを求め、象の一部を触れているたった一人の視点だけを正解としてしまうことは、それ以外の事実を訴える人を悪としてしまい、社会に大きな分断を生みだすことになります。これは、感染症の克服が遅れるだけでなく、より深刻な事態を引き起こします。

より弱いものを分断させ争わせることは、権力を維持するための強力な方法だとは先にも書きましたが、もしこの分断を加速させるような情報ばかりが力を持つことになったときは、それはわたしたちより上の領域にいる人たちちの権力をより強くさせる意図が働いている可能性もあります。分断が進むほど、民衆は悪を倒すためのより強い権力を上の存在に与えようとしますし、争ってお互いに潰し合い弱体化させることもできます。

一段階上の権力が強くなれば、自由で民主的な権利は影を潜め、監視社会に傾きます。また、その権力者は同じレベルにある別の権力者をその力を使って潰そうとすることもあります。いわゆる戦争です。そしてそのきっかけは、そのレベルより上の権力がその権力を強めるためにより弱い権力者階級の分断を意図することによって起こされる…というフラクタル構造になっています。

こんな風に話すと、なんだか虚構じみたものや恐ろしさが感じられるかもしれません。

でも、私はこの競争社会はもう終了フラグが立っていると思っているので、行き過ぎたとしても、それは最後にはそれが原因で終わると思っています。

ただ、その行き過ぎが最後には最大のピラミッドのトップ権力同士の「最終戦争」になることはいやだなあと思います。

ただ、それが絶対そうなる、ということもないと思っています。

「終わり」というと全力での最終決戦、をイメージするかもしれませんが、プロダクトライフサイクルの多くは、最終決戦なんてしていませんよね?

もちろん、最後まで残って戦い抜いた人たちもいます(武士とか)。でも、大半はあたらしい器が出てきて、そっちが魅力的なら、進んでそっちに乗り換えて、必要にされなくなって消えていくか、芸術的な領域でその文化を伝える役割を担う範囲でのみ存在するようになります。

もし、わたしたちが、あらゆるピラミッドを卒業して、象に触れる人たちみんなの声に耳を傾け、その全体像を見たうえで、たったひとつの正解ではなく、その時その時の最善を選び続けるなら、感染症の脅威も収まり、自然と競争社会は終わるはずです。

競争社会の次は、分散型社会、コミュニティ中心の世界だと言われています。

それこそが今のオンラインサロンだぜ!みたいな見方もありますが、いまのインフルエンサーが率いる有料コミュニティ(全部かは知りません)は、競争社会の小さなピラミッドに過ぎず、あたらしい時代の始まりではなく、終わりの合図です。

もし今近いものがあるとしたら、似た考えの人が集まり、リーダーは権力を持たず、運営のためのお金を出し合い、支え合い自体は無償で行う、幼稚園の父母会が一番近いでしょう(これも全てではなく、あくまで自分が通わせた幼稚園で感じたことです)。

本当のコミュニティ社会は、オンラインサロンブームが終わった後にはじまる、そう思っています。

そして、その社会こそが子どもの生きる未来と想定して、親としてできることを考えています。

それは、学歴のための競争でも、SNSをバズらせてサロンを作ることでも、ニューエリートになるための早期からの実績づくりでもない気がしています。

24時間子どもといながらだと、推敲までしているとその度に心の状態が変わり、永遠に投稿できなそうなので、このままアップします。

後で修正するかもしれません。

仕事しながら子どもの世話や家事をしていると、他の人がこの時間を使って何かを積み上げるなか、本当にこう言った文章を書く時間はなく、何か勉強することすら困難なのですが、どうせ競争社会がオワコンなら、そこにつぎ込むよりは、あたらしい仕組みがはじまるまでは、その先の基盤になる暮らしを充実せていこうと、あせるエゴに呼びかけながら過ごします。

もし、同じような境遇の人が、これを読むことで少し楽になってもらえたらうれしいです。

気がつけば4200字越え…。
長文読んでいただき、ありがとうございました。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。