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社会に適応すれば、しあわせになれるのか

あれ欲しい、これ欲しいに隠れた、自分のゆずれない望みをあらわにしていったら、「社会の基準の枠の外で衝動の赴くままに心身を動かしたい」だった。

時計を見ないで、満足するまでやりたいことをやる。
疲れたら、人目を憚らず楽な姿勢になる。
ワクワクする順番で、作業する。
感覚にだけ注意を向けて、味わい尽くす。

教育は、自分を社会のなかに位置付けられる「大人になる」ように整えていくことだ(と思っている)。

かつては「人の役に立つ」「迷惑をかけない」「立派な」とかいうワードで、今は「稼げる」「食べれる」「生き残る」なんてワードで表現されることが多いけど、

それはかつてが「集団内での承認」が特に重要で、今は「経済的に自立」することが、社会の一因となる上で、もっとも基礎的な素養とされているからなのかもしれない。

いずれにせよ、私にとっての問題は、自分のニーズは社会の外にあるということだ。

適応するための努力は、社会の一員になる上で避けられないけど、自分に限って言えば、ニーズはその外なのだから、いかに経済的に自立できる最低ラインで個人リソースの換金を踏みとどめるかがクオリティオブライフに寄与するのではないかと最近思っている。

いかに、最低限の労働をするか。
いかに労働と感じない仕事をするか。

こんなふうに考えるようになったのには、子どもの気質とニーズを観察する日々が大きく関係している。

教育において、社会の基準に心地よさを感じない子どもたちを、なんとか馴染ませていくことは、それが社会的支援の対象となる段階であれ、家庭で取り組む段階であれ、同じである。

伝え方を工夫する、強度を調整する、環境を変える…。

そうすることで、社会の基準に対しての困難を感じにくくする。社会の一員として生きていくことが、人間として生きるという以上、それは必要なことだ。

そのためのさまざまなアイデアは、子どもたちへの配慮に溢れているし、そういうケアが受けられる今は、よい時代になったと思う。

よりよい社会の一員となることで、人とつながり、経済的にも豊かになり、自らのニーズを満たされた人生=幸福になれるから、大人たちは子どもの幸せを願って、社会に適応するためのサポートをする。

が、大人としてそれをする一方で、大人になってそこそこ適応できていてもなお、社会に適応することで得られるものでは幸福になれないと感じる自分、社会の外でしか満たされないニーズが自分の中心にあるのを感じている。

どんなに読みやすい時計でも、そもそも一日中時計を気にしている生活は苦痛だ。

どんなにわかりやすいルールでも、ルールに意識を削がれないで集中できる感覚は捨てられない。

どんなに作業を細分化されても、やりたい順でやる自由がない人生には耐えられない。

365日じゃなくてもいい。でも、そういう社会の外側の時間が、それなりの物量ないと、生きた心地がしないのだ。自分自身がそういう人間で、それをそれなりに押し通して生きている。

それを振り返ると、子どもの教育をする側の自分としてふるまうとき、社会の一員でない時間、そもそも適応しなくていい時間が彼らにどのくらい必要なのかに意識を向け、

もしそれが自分のように多めに必要な子だったら、いかにそういう時間と場所を確保するか、本人が将来自分で確保するためにどんなことができるかを考えたいと思うようになった。

でも、ふとネット上を見回すと、「勝てる大人」「稼げる大人」にするとかしないとか熱狂しているのは大人ばかりで、子どもたちは、配慮するまでもなく、はなから自分の時間を大切にしているようにも見える。

ということは、結局のところ、わたしは子どもに教えられているだけ、あるいはわたしが大人になれないだけ、なのかもしれない。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。