【37. シルエット】

だから、理由は訊かなかった。
決して訊こうとはしなかった。
─戻って来てくれた…─
それだけで嬉しかった。
でも………
仙台に戻って来てからの彼は、別人のように思えてならなかった…。


今まで見掛けたこともないくらい疲れ切った顔付き。
ぼんやりと片肘で頭を支えながらTVを見ていたかと思えば、
─部屋の壁が透けて見えてんの…?─
とばかりに何処か遠くを見詰め、物思いに耽[ふけ]る。
まるで…
先生の話しも上の空に窓際の席からグラウンドを眺め、想いを寄せるお相手の“体操着姿”を探す男子生徒…
みたいな様子は
─片想い?─
それか
─失恋でもした?─
そんな風に感じられなくもない。
まさに
─心ここに在らず…─
といった雰囲気を醸し出している。
更には時折目を瞑り、彼女に気付かれないようにそっと深い溜め息。
当然、それに気付いた彼女は
「大丈夫…?」
と声を掛けるものの、彼は心配を掛けまいとしてか、さも何事もなかったかのように
…コロッ…
と表情を変え、
「うん…大丈夫だよ」
愛想笑いを浮かべてそう答えるのみ。
何となく…
─よそよそしくなぁい…?─
そんな感じ…。

戻って来ると決めたんなら…
言ってさえくれてたら…
彼女だってどうにか仕事の都合をつけて
─色々と引っ越しの手伝いに行ったのに…─
そうは言っても、家電やら机、椅子といった類いの家具やらが元々備え付けられたアパートなのだから、持ち帰るものと言えばパソコンと寝具、着替え、食器…まぁ、そのくらいなものだけど…。
それでも…彼女としてはお手伝いしたかったところ。
でも…
こないだ彼のところに遊びに行った時には、そんな素振りは一切無かった。
一昨日、電話で話した時だって、そんな話題は出なかった。
毎日のメールのやり取りでさえ、
「そのうち…戻ろうかと思ってる…」
みたいなことには一言も触れていない。
余りにも急過ぎる彼の決断に、彼女は嬉しさより驚きの方が上回っているのが現状。
良い意味で…
“青天の霹靂”
ではあるが、ただそれ以上に彼が心配…。

引っ越しの話題、準備も然[さ]ることながら、
─何かがおかしい…─
それに彼女が気付いたのは、引っ越ししたとなればオマケとして付いて廻る住民票や保険証など、役所での手続き。
あれから数日経つが、そのために彼が出掛けた…という形跡がない。
それに…
仕事にも…。


夜、彼のポケットの中で携帯が鳴った。
暫く続く。
切れる。
それが二度、三度と続くと、彼は携帯を開きもせず、サイドボタンを何回も押し始めた。
音が止むと、
…ほっ…
とした感じでテーブルの上に放置する。
が、少しして…
今度はバイブ音が響き出す。
─ウザい!─
と口には出さないものの、明らかにそういう態度で彼は最後のもうひと押し。
振動音も消えた。
まさに…“いたちごっこ”。
その様子を晩御飯の後片付けをしながら横目で眺めていた彼女は、堪[たま]り兼ねて
「出なくて良かったの?」
「また掛かって来たよ?」
「出たら?」
と嗾[けしか]ける。
しかし、彼は
「うん…いい…」
の一点張り。
そうこうしているうちに部屋のTELが鳴り出した。
「出なくて良いから…」
と言う彼の言葉を無視し、濡れた手をエプロンの裾で
…ペタペタ…
と拭きながら
…パタパタ…
と音のするほうへ駆け出した電話回線の契約者。
さっきから何度も彼の携帯を鳴らしていた相手は…
突然の仕事のキャンセルを聞き付けて心配の余り掛けて来た彼の仕事仲間だったことが判明…。
因みに、仕事中に万が一自分の身に何かあった場合の緊急連絡先として、彼は彼女の部屋の固定電話を申告していた…とのこと。
「『代わって…』だって…」
「うん…」
渋々重い腰を上げる彼。
と言っても、子機を手渡しただけではあるが…。
「うん…。うん…。大丈夫…。
具合悪いからこっち戻って来てた…。
うん…暫く休むから…。
うん、解った…。
そん時は電話する…うん…んじゃ…」
そんなやり取りをして彼はすぐに電話を切った。
「大丈夫なの?」
「うん…大丈夫…」
本当は…
─どうしたの…?
仕事で何かあったの…?─
に続く、幾つもの慰めの言葉が喉から出掛けたが、塞ぎ込んだ彼に追い討ちを掛けるようで、詮索するまでには至らない…。
けれど、そんな彼女でも…
─電話するつもりなんて…ほんとは絶対無いでしょ…?─
何となく…
何の根拠が無くても…
それだけは確信できた。

ともあれ、
彼はこっちで仕事をする当てを付けた上で…
とか、
元同僚やこっちの仕事仲間の伝[つて]を当たった上で…
戻って来ることを決めた…
という訳ではなさそう。
そもそも、出掛けてすらいないっぽい…。
今朝、彼女が出勤前に片した灰皿は、もう既に元の状態に復活している。
半日ほどで山盛りになる吸い殻が、殻に閉じ籠っている彼の毎日の様子を如実に物語っていた。
実際のところ…
彼が外出していたのは、彼女の送り迎えとちょっとした買い物に出る時くらい…。

─あんな…好きな仕事だったのに…
誇り持ってやってた仕事なのに…
俺は…経験も…知識も…人脈も…全部無駄にするつもりなんだろうか…?─
他人事[ひとごと]のように自分に問い掛ける。
けれど…
─身体が重苦しい…
それに、やる気も出ない…─
…は~っ…
出るのは溜め息くらい…。
際限無く纏わり付く虚脱感、倦怠感に苛[さいな]まれる彼を、彼女は優しく抱き締めた。
「暫く…ゆっくり休んだら?」
その一言に彼の視界が霞んでゆく。
彼女の肩に頬を埋め、
「うん…ありがと…ごめんね…」
と呟いた彼の肩は微かに震えているように感じた…。

しかし…
─それはそれ…─
男として情けない自分に、彼は苛立ちが募る。
─早いとこ仕事探さないと…─
内心では…
それも、かなり奥のほうでは…
かなり焦っていた。
が、数日経ってもやはり身体は思うように動かず。
寝込んでしまう…とまでにはいかないまでも、もはやその時点で彼の心も身体も
…バラバラ…
の状態だった。
でも
─もう少し時間が経てば…そのうち…すぐに…─
2人は互いにそう信じ、暫く様子をみることに…。


彼女を迎えに行くまでの間、気を紛らすために彼が独り、部屋ですることと言えば…
炊事、洗濯、掃除くらいなもの。
─まるで専業主夫だ…─
と自身でも思わずにはいられない。
けれど、大家族でもなければ、大邸宅に住んでいる訳でもない。
例え家事が不馴れな彼とはいえ、その程度であればさほどの時間を要すこと無く済んでしまう。
で…
空いた時間は…
とりあえずTVを点ける。
大抵、この時間帯は…と言うと
~芸能界に蔓延する薬物問題~
─どうでもいい…─
~今話題の○○の店~
─………パス…─
~新内閣が発足したことによる今後の政治の動向は…~
─まぁ、精々頑張って…─
次々にチャンネルを変える。
─こっちでも同じのやってるし…─
それか
─もうさっき見たし…─
それか
─まだやってるし…─
どこも似たり寄ったりの情報番組。
そんなもんだ…。
敢えて言うなら…
─教育テレビが一番面白い…─
といった具合。
となると…
やっぱり…
チェストの引出しを開けてしまう。
その中から適当にひとつ、100均で買ってきたと思われるパンダ柄の20枚綴りの収納ケースを手に取った。
…ペラッ…ペラッ…ペラッ…
映画にドラマ、アニメ、etc…多種多様に取り揃えられている。
しかも…
捲[めく]っても捲っても、全部彼女が好みそうなものばかり。
イコール…
彼が好みそうなものばかり。
結局…
カレの影が見え隠れしないでもない、あの忌まわしきDVDを観ながら過ごすことにした…。
一応…
なるべく余計なことは考えないように意識しながら…。
最初は、全然普通に観れていた訳だが、ふたつ目のケースに手を付けた辺りから
─何だか俺…無駄に時間を過ごしてる…─
みたいな罪悪感が彼の心を蝕んでゆく。
そこで…
その思いを消し去るために編み出した苦肉の策が、PS3の“R2”ボタンを
…ポチッ…
と一回押してのDVD観賞。
ボリュームは“0”。
台詞は一切聞かない。
というよりも…
“1.5倍速再生”では、元からきちんと聞き取れるようなものでもないのだが…。
まぁ兎に角、フラッシュするように次々に浮かび上がる字幕を脳裏に焼き付けながら観る…
という荒業。
更に、そのスピードにも馴れてくると2倍速にレベルUP。
これで少なくとも1日で7~8枚は消化できる。
─これなら無駄じゃない…よね…?─
と自分に言い聞かせるにはそれで充分だった。
だがしかし…
三つ目のケースを手にした時、彼の心には
思わぬ、
思いたくもなかった、
考えないようにしていた感情が浮上する。
その切っ掛けとなったのは…
50枚入りの丸いケースが
─1、2、3、4、5、6…─
縦長の40枚綴りのやつは
─1、2、3、4、5、6、7、8…─
20枚綴りに至っては
─1、2、3……11、12、13…ってか、まだあるし…─
と、前みたいに数えてしまったこと…。
途中で
─…もういいや………─
と頭では考えていても、勝手に動き出した両手は既にDVDケースで満杯の引出しを押し込み、そのもう一段下の取っ手に触れていた。
そこは元々、彼女の下着が仕舞ってある場所…。
興味本意で、
恐る恐る、
期待に胸を膨らませながら、
遂に彼は覗いてしまった…。
「やっぱ………だよね………」
まさしく彼の予想通り、そこは…
まだまだ有り余るほどの未視聴のタイトルが、PS3の細長い口に吸い込まれる順番を今か今かと待ち侘びるスペースへと変わり果てていた。
─見なきゃ良かった…─
が、もう遅い…。

─こんなこと考え出したらキリがない…─
と、何とか気を取り直し、湖の畔に佇む真っ白なお家を舞台にした恋愛ものの映画[※1]を見始めた。
ところが…冒頭から、字幕が全く頭に入ってこない。
…はぁ~…
彼はコントローラを握る。
すると、同じ場面が何度も何度もループする。
「全く……いい加減さぁ……」
独り言を呟きながら呆れるほど、そんな現象に再三に渡り苛[さいな]まれる。
そしてその度に…
余計に考え込み、深みに沈み込んでゆく彼…。

それもこれも
─彼女のせいだ…─
と言うのは容易い。
が、彼はそういう性分じゃない。
─彼女の気持ちを惹き留めることが出来なかった俺が悪い…─
と自分を責める人。
─彼女がカレと逢うのだって、うちらが離れて暮らしてたからだ。
俺が出てったせいだ…
寂しい想いをさせてるからだ…─
例え、本当は違う理由だった…としても…
それに
2人が一緒に暮らし始める前から、あの二人の関係は続いていることなんて、彼自身も重々認識していたとしても…
短絡的に
─自分のせい…─
と捉えてしまう。

そもそもそれが…
それこそが…
彼が戻ってきた一番の理由だった。
─仕事で嫌なことがあったから…─
なんてそんな稚拙[ちせつ]な理由なんかじゃない。
戻ってきたのも、戻ってきてからずっと塞ぎ込んでいるのも、気持ちが落ち着かないのも、何もかもが彼女のことを想うあまり…。
それが、事の真相…。
しかし、
彼が抱く彼女への想い…
それは、戻ってきたばかりの彼を見て彼女が一瞬思ったような
ほろ苦い“恋煩い”
的なものとは全く以[もっ]て“似て非なるもの”…。
─一緒にいたい…─
そう想うより遥かに…
─まだカレと電話してんじゃないの…?
どうせ…また逢ってんでしょ…?─
という思いのほうが、心の殆どを占めていた。
嫉妬や不安…?
否、それとも違う感情…。

今朝、彼女を職場に送り届けた時だって
─実は、本当は休みで…
これからカレと逢う約束をしてる…
とか…ないよね…?─
ついそんな考えが浮かんでしまった。

勿論、それは彼の勝手な推測に過ぎない。
もし仮に、彼女が本当にその計画を実行に移すとなれば…
万が一のために、既に彼も顔見知りになっている自分の同僚とはどうにか口裏合わせをしなければならないし、彼が戻ってきた今となっては整合性がきちんと取れたシフト表の改竄[かいざん]も必要になってくる。
最低限そうでもしない限り、否、どんな緻密な計画を立てたところで、勘の鋭い彼にはすぐにバレてしまうのがオチ…。
だから、これまで彼女は一度だってそんなことをしたことも無いし、これからもそんな手の込んだ段取りや迫真の演技をしてまでカレとの時間を工面するつもりもない。
今更もうその必要なんてないのだから…。

でも彼は衝動的に、彼女がドアの向こうへ消えてからも暫く駐車場に留まっていた。
─なんで俺…こんなことしてる…?─
と考え直し、やっとその場を離れられる決心が付いたのは、約30分後…。
序[つい]でに言うと、こないだは半日…。

全ては…
─俺が傍に居なければ…
微笑む彼女の視線の先には…
心の中にだって…
俺なんかじゃなく…
いつも…
カレがいるんでしょ…─
そう思うようになったせい…。
あの日…
皮肉にも彼女が
─もう絶対…カレと逢わないことにしよう…─
と決めた夜からずっと…。
彼女へ向けられていたのは…
“愛”
とは掛け離れた
“疑い”の眼差し。

確かに…
彼は一言彼女に訊きさえすれば、その疑いは晴れるかも知れない。
けれども、彼は直接訊くことが出来なかった。
疑うことで、嫌われたくはなかったから。

「逢ってないってばっ!………もういいっ!」
そう言い残し、彼女が着の身着のまま部屋を出て行ったのは、確か随分前のこと。
その時のことは今も尚、トラウマのように彼の心を駆け廻る。
勿論、彼はすぐに追い掛けた。
自分の車で…。
そしてすぐに、彼女の後ろ姿を見付け安堵した。
しかし不運なことに、そのタイミングで起きたのは…
彼の不注意による車同士の接触事故…。
正直、それだけだったらまだ、彼も救われたろうに…。
如何[いかん]せん、その先の信号待ちをしている彼女の後ろ姿は、あろうことか“誰かさん”と電話しているようにしか彼の目には映らなかったものだから…
もう手の施[ほどこ]しようがない…。

だから訊けなかった…というのも一理ある。
それに、敢えて彼は訊かなかった…というのも一理。
─どうせまた、嘘を吐かれる…─
のが判っていたから。
「ごめん…まだ逢ってる…」
なんて本当のことを話す彼女より、嘘を吐く彼女を見たく無かった。
それに…
疑っている自分を認めたくもなかった。
それに…
─もう言わない…─
って決めたから。
そして…
そんな思いを彼女に見透かされそうで…
彼は無意識のうちにきちんと目も合わせられなくなっていた…。


だが、幸いにも…
彼女は、その思いに気付いてはいない。
─きっと…疲れちゃったんだよね…?
私のこと、頼って来てくれたんだよね…?─
軽い鬱的な症状か何か…として捉えていた。
─心配しないでね?
例え何があってもお互いに支え合ってきた2人なんだもの、このくらい何てことないよ?
へっちゃら─
これまでも…
何かしらの理由で多少気まずくなったり…
一旦は別れたり…
とか…
何だかんだ言っても大変な出来事を乗り越えてきた2人の仲。
こんなことくらいで亀裂が入ったりするような柔[やわ]な関係じゃない。
だからこそ、ここは自分の番…とばかり、
─私が付いてるから…─
そう彼女は心に決め、意気込んでいた。
意気込んではみたものの…
実際のところは
─でもどうすれば…?─
それはそうだ。
彼がこうなった理由を話そうとはしないのだから、彼女には対処しようにもその術が見当たらない。
で、思い付いたのは、とりあえず…
「今晩…どっか出掛けない?」
職場に向かう道中、その問い掛けに対し
「ん~…今日はいい…」
と返事した彼に
「何か食べ行くから、今晩は作んなくっていいからね?」
車から降り掛けの彼女が念を押す。
更に有無を言わさぬよう、続けざまに
「行ってきま~す」
とも。
そんな訳で…今夜は外食に決定。

─何だかんだ言ってたけど…─
案外嬉しそうに話しをしながら食事を楽しむ彼の笑顔に安堵する彼女。
─連れ出して良かったぁ─
騒がしい店内で、揃ってワンディッシュのWチーズハンバーグセットを食べ終えた2人は、それからドライブに繰り出した。
一応今回は、いつもみたいな“特別なの”じゃない予定。
言うなれば“リハビリ”といったところ…。

ところがそんな最中、彼が思うのは彼女の想いとは裏腹に
─ここもカレに乗せられて通った道…?
さっきの店だって…一緒に行ったことあるんでしょ…?─
そんな何の意味もない妬みや疑念。
でもやはり彼女だって
「カレとはもう逢わないことにしたから…」
なんて、一言も伝えていないのだから仕方ない…。
言えば
「もう逢ってないから!」
と言い張ってきた全部が“嘘”…と認めるのと同じ…。
─そんなんで彼に嫌われたくない…─
という不安を抱いていた。
それに…
例え
─その嘘の殆どがバレてる…─
と解っている彼女でも、そう易々と言えるようなふてぶてしさは生憎持ち合わせてはいない。
それに…
─もう絶対逢わないし…
もう終わったことだから…─
そう考えていたせいもある。
しかし…
そう思うのは彼女だけ…。

そんなの知らない彼にしてみれば、この状況…
疑心暗鬼が生み出す自己嫌悪で、かなり厳しい苦境に立つ思い。
その精神的苦痛は、弱点を知り尽くした自分が無防備な自分を拷問しているに等しい。
それでも…
─きっと心配してくれて…
『どっか食べ行こう?』
って言ってくれたんだろうな…─
という彼女の気持ちだけは理解できた。
だからこそ笑顔にもなれた。
─でも…─
だからこそ複雑な思いが交錯していた…。

「ねっ?
たまに出掛けるのも気分転換になっていいでしょ?」
「うん…だね」
と答えた彼の本当の想いを知る由もない彼女の想いは空回り。
そしてそれは…余計なことを考えている彼だって同じ。
互いに空回りする“2人の想い”…。

それでも…
しっかりと絡まり合っていたのは、普段から車に乗り込むとすぐに…特別なドライブじゃない限りはずっと…コンソールボックスの上で繋がったままの2人の手。
その手を彼が
…ギュッ…
と握る。
彼女も同じように返す。
彼女が
…ギュッ…ギュッ…
と握れば、彼も
…ギュッ…ギュッ…
と返す。
そして2人は一瞬、微笑み合う。
言葉は無くても通じ合う
─愛してるよ─
のサイン。
彼女は少しだけ…その手を自分のほうへ引き寄せた。
すると彼が口を尖らせて彼女のほうを向く。
前方の流れる景色を横目で気に掛けながら…。
その景色が緩やかなカーブから直線に変わった途端、
…チュッ…
2人の唇が優しく触れ合った。
再び微笑み合う。
が、突如互いの手は離れ離れに…。
というのも…
その離れた片方の手は、太腿の上への着地を見事成功させ、膝丈より少し長めのキャノピー[※2]を既に手繰[たぐ]り寄せていた。
露[あらわ]れた素脚に触れる。
…つつ~っ…
と優しく撫揃[なぞ]りながら更に捲り上げる彼の手元と横顔を街の灯りが妖しく照らし出した。
その
…キラキラ…
の彼の目に惑わされてか、彼女も微睡むような瞳に変わり
「…ぁ…」
小さな吐息を漏らした。
しかしすぐさま、彼の掛けた妖術を振り払うように
「まだ…だ~め…」
内股を拡げるように蠢[うごめ]く指の動きを
…ギュッ…
と重ねた手で押さえ込んだ。
─そんな気分じゃ無かったから…─
ではない。
あくまでも
─お部屋に着いてから…─
という意味で。
そのつもりだったのだが…
…うっとり…
とした上目遣いに、彼の手の甲に絡ませた彼女の指先は、如何[いか]にも…
─どこかもっと別の場所へ…─
引き寄せているようにしか思えない…
そんな仕草と動きだ。
その結果…逆に、見事彼女の術中に嵌まった彼が辿り着いたのは、他でもない…まさしくその“どこか別の場所”。
当然ながら、そこを
…つつ~っ…
さっきと同じように優しく撫揃り始める。
「…ぁ…ん…」
何往復かするうちに、その場所を覆っていた布切れが彼の指先と一緒に徐々に食い込んでゆく。
「…あ…ぁん…」
第一関節あたりまで滑[ぬめ]り込んだ摩擦は、もう一番敏感な部分にまで伝わってきていた。
「だめぇ…」
そうは言っても、彼女に抵抗する気はなさそう。
そこで彼は甘えた声で
「だめなのぉ…?」
と拗ねた顔。
焦[じ]らすようにしながらもその手を離しはしたものの…
目付きだけは既にすっかりHモード。
すると、彼女が予想していた通り
…ジュワッ…
とした湿り気を帯びた指先は鼻先へ…。
それを
…くんくん…
しながら、彼は
「ほんとはぁ?」
と意地悪に訊ねた。
彼女はちょっとだけ口を尖らせ、さっきよりももっと深い上目遣いで
「…だめじゃないよっ?」
と小さく甘え声…。
期待してた通りの回答に、すぐに元の位置に戻ると邪魔な布切れを摘まんでその裏側に潜り込む。
今度は…
…たっぷり…
とその滑り気を纏わり付け、再び鼻先に近付ける。
「いやぁん…」
と視線を逸らした彼女に
「ほら…」
わざわざテカり具合を見せびらかしてからの
…チュパッ…。
「エッチなのぉ…」
とご満悦の表情。
─いつもの彼だ…─
そう感じた彼女は、負けじとばかり可愛らしく睨み付け、
「自分だってぇ…」
と硬くなった彼を掴んだ。
今度は…
仕損[しそん]じることなく、しっかりと…。
そのお蔭で2人とも…スイッチON。
スカートの更に奥へと潜り込んだ指先を腰の辺りに引っ掛けたほうも、
ジーンズのジッパーに手を掛け
「たまには…自分も脱いでみたら?」
と問い掛けたほうも、
両方とも
…せ~のっ…
「よいしょっ…と…」
と申し合わせていたみたいに腰を浮かせた。
それから
次第に…
少しずつ…
互いの吐息が漏れ始めたところで、目の前の信号が赤に変わった。
でも、だからって2人の手の動きまで停まることはない。
序でに言うと、今なら前を気にする必要もない。
だから、そのまま激しいKiss。
すると後ろから
…プップッ…
つい夢中になっていた2人へ、既に青に変わったことを知らせるクラクション。
絡めた舌が離れるのと同時に、彼は
「ん…?あ…ごめん、ごめん…」
とブレーキペダルから足を離し、右手で窮屈そうにハザードを2回。
では、左手は…?
予想通り…
まだ定位置に居座っている…。
…じわりじわり…
と彼の車が歩み出す中、
「愛してるよ」
「私も愛してるよ」
2人は互いの想いを確認し合うように無意識のうちにしっかりと見詰め合った。
が、しかし…
彼女はすぐに視線を逸らす。
というのも…
その訳は…
気を揉んで煽っているかのように
…ピッタリ…
と後ろに付けた車の運転席の男性なら知っている筈…。

彼の車のシートとシートの間から見えていたのは…
身を乗り出して凭[もた]れ掛かる長い髪。
それを耳に掛ける仕草。
そのまま沈むように消えていった横顔。
丁寧にゆっくりと浮き沈みするシルエット…。

そして…
中央線がオレンジの実線から白の点線に変わった辺りで、いつもみたいな彼の実況が入る。
「あ…なんか…こっち見てるよぉ?」
「…ん?…んわ~ん……うぇ~あっかっかぁ……」
制限速度
…ピッタリ…
で走る彼の車を追い越しざまに執拗に真横に付けて覗き込んできたのは、もしかすると…
そんな彼女に気付いていたから…?
その真偽は定かではない…。
が、どちらにせよ…
間違いなく…
さっき彼女が少しだけ顔を上げたその一瞬…
その男性と目が合ったのだけは確か…。


2020/04/04 更新
────────────────
※1 湖の畔に佇む真っ白なお家を舞台にした恋愛ものの映画…それは、ねおがとってもお気に入りな映画『LAKE HOUSE』のことです。結構昔の作品で、“引っ越し先のミステリアスなポストに残されていた一通の手紙が、やがて主人公の男女を恋に…”と、まぁそんな内容。恋愛ものが好きな方には是非お薦めしたい逸品です。

※2 キャノピー…パラシュートやパラグライダーなどの布製の傘の部分を指す。文中で、“着地した彼の手が手繰[たく]し上げるもの”と言えば…自ずと知れた“彼女のスカートの裾”。
────────────────
【備考】
本文中に登場する、ねおが個人的に難読な文字、知らない人もいると思われる固有名称、またはねおが文中の雰囲気を演出するために使用した造語などに、振り仮名や注釈を付けることにしました。
尚、章によって注釈がない場合があります。

《本文中の表記の仕方》
例 : A[B ※C]

A…漢字/呼称など
B…振り仮名/読み方など(呼称など該当しない場合も有り)
C…数字(最下部の注釈に対応する数字が入る。参照すべき項目が無い場合も有り)

〈表記例〉
大凡[おおよそ]
胴窟[どうくつ※1]
サキュバス[※3]

《注釈の表記の仕方》
例 : ※CA[B]【造】…D

A,B,C…《本文中の表記の仕方》に同じ
D…その意味や解説、参考文など
【造】…ねおが勝手に作った造語であることを意味する(該当のない場合も有り)

〈表記例〉
※1胴窟[どうくつ]【造】…胴体に空いた洞窟のような孔。転じて“膣”のこと

※3サキュバス…SEXを通じ男性を誘惑するために、女性の形で夢の中に現れると言われている空想上の悪魔。女夢魔、女淫魔。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?