「あのとき助けてもらった小娘です」画家・飯原一夫さんに言いたかった言葉
徳島県の画家、飯原一夫さんが2023年7月に亡くなった。
訃報を伝える県内のニュースをぼーっと眺める私の目からは、知らず知らずのうちに涙が零れ落ちていた。
一見、ただのしがないライターである私との接点は全くない。
しかし彼は、私の人生の背中を大きく押してくれた一人なのである。
時は遡ること9年前。
私は、新卒で入社した地方情報誌の編集ライターとして徳島県内外を駆け回っていた。
ある日はカフェへ、ある日は農家民宿へ、ある日は工事現場へ・・・
22時を回るまで毎日のように働き続け、気づけば25連勤12時間勤務。
心も体もボロボロになりながらも、仕事は楽しかった。
しかし、上司のパワハラもひどく、同期社員の人格否定をするためだけのミーティングが開催されたり、デスクまでやってきて2時間近く怒鳴り続ける上司がいたりとそれはもうカオス状態。
「わたし、こんなことをやりたくてライターになったんだっけ」
毎日毎日、浮かんでは消してきた。
取材先の優しい人々に励まされ、ありがとうの言葉に突き動かされ、「これがやるべきことなんだ」と言い聞かせ続けていた。
そんなある日。
「芸大卒だったよなぁ?ここ、取材行ってくれん?」
上司が持ってきた仕事は、戦争画家である飯原一夫さんのご自宅まで行ってのロングインタビュー。
絵も載せるが、しっかりと読み応えのある文章を書けそうな見開きの目玉ページだった。
(当時はたった4人でそこそこのボリュームがある月刊誌を作る部署にいたので、今考えれば、上司が面倒くさがって私に回してきたのだろう)
ちょうど、丸一日取材予定がない日の指定だったのでなんとも思わず受けることにした。
彼の自宅は、昭和の香りがする古き良き家だった。
私の祖父母は同居だったが、みんなが言う『おじいちゃんおばあちゃんの家』とはこういった家であろうとぼんやりと思った。
インターフォンを押すと、奥様が出てきて客間に通してお茶を出してくれた。
穏やかで淑やかな手つきが今でも鮮明に思い出せる。
そして、再度扉が開いた先に、彼がいた。
重い足取り、深いシワ。
一瞬たじろいだ私を見逃さない目。
心臓をキュッと掴まれた気分だった。
それでも仕事はこなさねばならぬ。
震える声で企画の説明をし、酸っぱいものを食べた時のような顎の痛みを感じながら笑顔を作った。
「・・・」
「・・・・・・」
沈黙が痛い。今すぐ帰りたい。どうしてこんなところに来ちまったんだ。
「・・・で、?」
「・・・で、、と申しますと・・・?」
「こんな企画に絵は載せれん」
「・・・は、い」
すでに頭は真っ白だった。喋るより先に、上司が怒り狂う図が頭の中で展開していく。非常にピンチであることだけは理解できた。
「ですから、8月号の終戦記念日特集として・・・」
「だから、なんの軸も信念もない企画に載せられる絵はない」
「そう、ですよね。」
営業スマイルが砂のように崩れていく。
のどがつまる。視界がぼやける。仕事中だぞ。笑え、笑え、わらえ、わらえ、わらえ。
「・・・上司に電話繋いで。直接話すわ。」
終わった。
私の会社員人生が終わった。
上司だけは、上司だけは勘弁してくれ。
そう思いながらも、彼のまっすぐな瞳には逆らえず、私は携帯で上司に電話を繋ぎ、彼にかわった。
上司と電話口で何を喋っていたのかは覚えていない。
もう、この仕事が上手くいかなかったという事実だけが除夜の鐘のようにゴンゴン頭に響く。
「ん。」
差し出された自分の携帯を両手で受け取る。手の震えが自分でもわかる。
「あんたは、なんでこんな会社におるんや?」
いきなり頭を撃ち抜かれたようだった。
一番、自分が自分に聞きたい言葉を言われてしまった。
「芸大出て、何がやりたかったんや」
もう限界だった。取材先で子供のようにわんわん泣いてしまった。
奥さんがおろおろして背中をさすってくれた。冷めてしまったお茶を淹れなおしてくれた。
ぽつりぽつりと本音が漏れる。
実家の呉服屋を継ごうと思って、商品を作れる人間になりたいと染織の道に進んだこと。
家庭環境が半壊して、「こんな家、誰が継いでやるか!」と半ば意地になって文字の道に進んできたこと。
20日以上の連勤と、泊りがけの取材も重なって息ができなくなっていること。
毎朝、「前の車に突っ込めば、会社行かなくていいかなぁ」と思いながら車を走らせていること。
それでも、書く仕事は心の底から楽しいこと。
「あの企画はさっきの上司が考えたんやってな。わかった。あんたのせいじゃない。」
私がもっと企画を詰めてから来ればこんなことにならなかったはずなのに、彼は私を責めなかった。
それどころか、「あの会社は大丈夫か」、「やりたいこともっとあるんちゃうか?」とまっすぐな目で問いかけてくれたのだ。
水分が抜けて搾りかすのようになった声が出る。
「死ぬまでに、誰かひとりでいいから、私が書いた文章が心に残って欲しいと思ってます。誰かに読んで良かったと思ってもらえるような、思い出してもらえるような文字が書きたいと思っています。」
「頑張れ。」
当時もう80歳を超えながらも、戦禍のリアルを伝える絵を書き続ける画家からの言葉は重かった。
誰かひとりどころか、油絵で多くの人の心を動かしてきた事実が裏付ける、絶対的な応援。
思考停止で動かすことすらできなかった私のエンジンがもう一度点火していく。
帰りには、彼が手がけた絵本や画集を持ちきれないほどもらった。
仕事をするどころか勝手に身の上話を始めて、嗚咽をこらえられないほどに泣きじゃくった謎の小娘に、これほどまでに向き合ってくれる人がいるだろうか。
「会社辞めても、いつでもおいで」
そういって、夫婦で優しく送り出してくれた。車に乗るとまた涙が溢れてきた。マスカラがどろどろに溶けてコンタクトレンズがズレそうだ。痛い。前が見えない。
こうして、うじうじグズグズしていた23歳の女は、仕事を完遂することなく、取材先でわんわん泣くという大失態を犯しつつも、一つ覚悟を決めて会社に戻ったのであった。
ほどなくして会社を辞めた。新卒入社からたった4か月の出来事だった。同期も同じタイミングで8割辞めていったが、みんなどうしているか全くわからない。(地獄のような日々を支えあった仲であっても、地獄がなくなれば一瞬で忘れ去ってしまうのだ。)
その後、フリーターになり、上京してコピーライターになり、結婚してなんやかんやあってフリーランスとして独立。
「いつでもおいで」と言ってくれていた言葉をずっと噛みしめながらも、もっと大きくなってからと言い訳をして会いに行かなかった。
そして去年7月。とうとうお礼も言えず、今の私も見てもらえないまま、彼は虹の橋を渡ってしまった。
たった一度だけ会った人。
彼は全く覚えていなかったかもしれない。
こうして書き起こしてはいるが、私の記憶の中の話なので良いように修正されているかもしれない。
そうだ、その通りなのだ。しかし、私にとっては忘れられない一日だったのだ。
今こうして私が文章を書いているのも、彼と、彼の奥さんがいたからこそである。
あのまま意味も理由もなくあの会社に居座り続けていたら、東京にも行かず、愛する旦那ちゃんとも出会わず、こうしてライターのはしくれとしてお金をいただく人生も無かったのだ。
ああ、画面がにじんできた。
愛用のキーボードは汚したくない。だって壊れたらショックだもの。
7月からずっとこのことを書こう書こうと思いつつ、書いてしまったら本当にもう二度と会えないことを認めてしまうようで書けなかった。
こんなところで書いていても、彼に届くことはない。
彼が覚えていなくとも、「あのとき助けてもらった小娘です」と言いたかった。
どうにかこうにか文字でおまんま食べてます。
そのあとすぐに上京して、大好きな人と結婚して、また徳島で住み始めました。
そうそう、今度おうちも建てるんです。
あの日、背中を押してもらったから、死なずにこうして生きてます。
もし、虹の橋の向こうにも現世のネットの海をのぞき見できる環境があるなら、「ああ、そんなやつもいたな」と思ってもらえていますように。
何十年かしてそっちに行ったら、改めてお礼を言わせてください。
飯原一夫さん、ほんとに、ほんとに、ありがとうございました。
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