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ジブリ『君たちはどう生きるか』

2023.7.16
 待ちに待ってようやく鑑賞してきた『君たちはどう生きるか』。鑑賞直後の感想は「駄作だ」だった。
 
 前情報一切無し。コロナや戦争、デフレ、おまけに地球もどんどん破壊されている、こんな世の中になってしまった、これからどうやって生きていけばいいのだろう、と嘆いているところに80代の宮崎駿監督(以下敬称略)から届いた『君たちはどう生きるか』。公開日までの間考えていたことはと言えば、戦前生まれの彼は私たちにどんなメッセージを伝えてくるのだろうか、だった。かなり期待をした。『風立ちぬ』では、物を作る人たちのわがままさも描いていたので、今回も完全な子供向けという感じではないだろうと勝手に思っていたが、それでも宮崎駿だからと何かしらのエンターテイメントは求めていたようだ。鑑賞し始めは、階段のシーンや走るシーンでゾクゾクしたり、アオサギが出てきてブン!と飛べば嬉しくなったが、だんだんとストーリーがどこへ向かっているのかわからなくなるし、アオサギ以外のキャラクターはどこかで見たものの劣化バージョンのようであまり魅力を感じられない、アイデアは昔の刷り直しで新しくない、ただダラダラと続くので途中からは早く終わらないかなと思っていた。性格的にストーリーが突拍子もなかったり破綻していてもそこはあまり気にならないタチで、シーンごとにその世界に入っていけるのだが、それでもやはり面白くなかったし、眠かったし、期待外れ、残念、という感想であった。その後他人の感想を覗くと賛否両論で、駄作だという人もいたが、素晴らしい、泣いた、アート作品だ、などの意見も多かった。あの作品が素晴らしいって一体何を素晴らしいと言っているのだ?全く理解できんが気になる。実は鑑賞中、はじめからずっと泣いている人がいたのだが一体何を泣いていたのだろう。その疑問もあったので、エンタメ目線から離れて、もう一度考えてみることにした。

 そこで、初めに引っかかっていた、なぜ『君たちはどう生きるか』という題名をつけたのか、から考えてみた。彼は、この作品を通して、君たちはどう生きるかと聞いているのか?しかしそれにしてはストーリーが不親切だ。もしやこの題名は「君たちはどう生きるか。僕はこう生きた。こう生きている。」と続いて行くのではないだろうか。そう考えると色々想像出来る。大叔父は宮崎駿自身で、あの塔はアニメの世界なのではないか。アニメの世界へ飛び込んでこちら側に帰ってこなかったのが宮崎駿自身ではないか。だからこそ今まで作り上げてきたアニメを思い出させるものがあちこちに散らばっていたのではないか。初め感じたアイデアの刷り直しと思っていたそれは、オマージュだったのではないか。大叔父がアインシュタインみたいだったので勝手に地球規模の話だと思って観ていたが「この世界が終わってしまう」というセリフの「この世界」とはアニメの世界、またはジブリの世界のことを指すのではないか。塔の中を管理しているどちらかというと対立している感じのインコ大王ともうまくやっている大叔父も疑問だったが、鈴木敏夫氏と考えれば納得がいく。なんとなく顔が似ていた気がする。(ほんまかいな)インコたちはこの世界(ジブリ世界)がこのままではダメだと変えようとしているが、大叔父はそれが受け入れられないのでは?などなど、勝手に想像していける。最後に大叔父の13個の石の話があったが、それは宮崎駿が作り上げてきたアニメではないか。その石(意思…ここで親父ギャグです)でなんとか均衡を取ってきたジブリの世界、しかし自分はもうできない、なんとか後継者が欲しい、綺麗事言うインコには任せられない。それを物語にしちゃったのではないだろうか。ちなみに彼が作った長編作品を数えてみたら13作品だった。(間違いがあればスルーしてくれぃ)後継者になってくれないかと主人公に伝えた時、主人公が断るシーンがあるが、そのときの大叔父のセリフは、今思えば、作家としての狂気もない綺麗ごとを言うやつじゃ後継者に向かないと言っているようだった。ちなみにその時の大事なセリフは忘れている。眠かったので全てがうろ覚えだ…。それはともかく、主人公の青年も宮崎駿自身だろう。夢の世界なので宮崎駿が2人いても全然いいのだ。彼がどのようにアニメの世界へ入って行ったか、が描かれているようだった。塔の中へ引き寄せ、その後一緒に助けあうアオサギは手塚治虫の描く鼻の大きいキャラに少し似ていたから、手塚治虫だったのかもしれない。宮崎駿が手塚治虫を好きだったのがどうかは知らないが、手塚治虫も漫画ばっかり描いていた狂気を持った人だったから通ずるところはあるような、、。一緒に乗り越えて助け合う感じもするので高畑勲なのかもしれない。塔の中(アニメ世界)へ行くことを皆が止めているが、死んだ母親だけが塔の中で彼に「いい子に育ったね」と言った場面も、自分がアニメ界の中にいることを肯定してくれた存在として描かれているように見えてくる。アァ、こんなことを考えているときりがない。まだまだいくらでも勝手な想像ができる。いい加減にこの辺でやめておくが、こんな感じの見方をすれば面白いところもあるのかもしれない。

 さて、こうではないかの話はやめて、この映画ははたして駄作だったのか、に戻る。エンタメ目線から離れ、オタク目線で観たら楽しいのかもなぁと少し歩み寄った感はあった。しかしどちらにしろナルシスティックなものが見え隠れするものは趣味ではないし、映画としてはやはりファーストインプレッションに戻るか。ただ、時間が経ち日に日に思うことがあるのだ。作品の良し悪しや好き嫌いはさて置き、宮崎駿は80代になって、今までやってきたことではないことをやった。そんなこと自分にはできるだろうか。自分のように言いたい放題言う奴がいると彼は百も承知で、そしてそんなことはお構いなしに、しかも彼自身が自分でもよくわからないと言ってしまうアニメを公開した。それがどんなに凄いことなのか、と。彼は彼の信念を歩いた。行動をした。このことこそが彼からのメッセージだと次第に思えてきたのだった。そしてそう思い至った時初めて宮崎駿の声が聞こえた気がした。僕はこう生きている。君たちはどう生きるか。




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