法律を学ぶことの意義の個人的所感

法律ってなんだ?


「お前の行為は、民法96条に抵触する。法に則り取り消させてもらうぜ!」「く、くそう……!」

 法律を用いて快刀乱麻に事件を解決。昨今のドラマや漫画、ゲームなどでもよく見られる痛快な展開だ。現代の法治国家において法律というものは強力なものである。生きている中で法律を意識しない人間はまずいない。そんなに仲良くない友達の友達からいきなりムチャ振りをされて「よし、殺そう」と決意をしても、法律というものを意識してしまうとどうしても揺らいでしまう。犯罪に対する抑止力として法律に価値があることに疑いの余地はない。万が一抑止力を越えて事件に巻き込まれたとしても、法律を知っていれば物事を有利に運ぶ事ができる。住んでいたマンションを出ていく時に敷金、礼金も返してもらえる、といった事も民法を知っていることで得られる身近なお得ポイントだ。

法律ってすごいと思うけど難しそうだよね

 しかし、法律の社会的な強力さを知っていながらも積極的に法律を学ぼうとする人間は少ない。理由は簡単、難しそうだし種類が多いからである。法律を使う職業といえば弁護士、検察官、裁判官、国税専門官、労働基準監督官、司法書士、行政書士、社会保険労務士、宅地建物取引士、通関士、等々。いずれも公務員か国家資格が必要なものが多い。

 法律の種類も六法と言われる憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の他に、労働法、行政法(更に細分化)、環境基本法、等々。これらのいずれかを選んで職業にしたものが前述のそれぞれの士業となる。

 もうこの段階で身震いが起こる。法律の有用性以上に、頭の良いエリートが一流のキャリアに上り詰めるために学ぶものという偏見が頭の中を支配していく。そんなものを凡人である自分が理解できるわけがない、と実際に触れたわけでもないのに、自身が生み出した幻の壁の高さに絶望して諦める。いや、実際難しいけれども。難しいから素人の代わりにプロが法律を使う仕事が職業として成り立っているんだけれども。それでも自らが生み出した幻影に物怖じして触れる前に諦めるのは何か違うだろうという事は、法律にかかわらず全ての分野に言える事だ。

法律って何を勉強するの?


 とはいえ、自身の中の幻影を振り払って前向きになったとして、法律を勉強するという事自体があまり想像できない。

「そもそも法律って何を勉強する必要があるの?条文とか暗記するの?」

 もっともな疑問だ。私たちはドラマや漫画などの法律をモチーフにしたメディア作品に触れることで、法律は大量に条文があるということを知っている。そして大抵、冒頭に私が書いた場面のように、登場人物が条文を提示して相手の矛盾や不法行為を論破するという展開が描かれる。そのせいで法律を勉強する事=条文を可能な限り大量に暗記する事と誤解をされているように思える。これは法律を扱う物語を分かりやすく受け手に伝えるために歪められてしまった見方だ。間違ってはいないがこれが全てではない。法律で勉強をするものは大まかに分けて三つある。

①条文
②判例
③学説

 法律の種類によって多少の差はあれど、大体これらを勉強することになる。①の条文を勉強する事はすでに大多数の方が理解していると思うので割愛する。しかし、②の判例と③の学説を学ぶという事にイマイチ実感がわかないという人も多いのではないだろうか。ところがどっこい、この判例と学説こそが法律を学ぶ上で重要な事なのである。

 なんで判例と学説を学ぶの?

 結論から言えば思考法を学ぶ為である。法律を考える際の思考をリーガルマインドという。これを養う事が大学の法律教育の一つの目的となっている。

 テレビ番組を見ていたら法律に関するクイズを出していた、という状況に出くわした人間は結構いるのではないだろうか。そして、それに果敢にチャレンジした人もいるだろう。そして答えを見て「はぁ!? どうしてそういう結論になるんだよ! おかしいだろ!」と納得できない様な問題が必ず一個はあったはずである。ひとつ例を挙げよう。

Q、次のうち、民法的にアウトなのはどれ?

①隣の家のたけのこが自分の土地に入ってきたので、それを取って食べた。

②隣の家の木の枝が塀を越えて自分の家の敷地に入ってきたので、枝を自分の敷地内ギリギリまで切った。

③隣の家のリンゴの木の枝が塀を越えて敷地に入ってきており、その枝からリンゴが自分の土地に落ちてきたので食べた。



 どうだろうか。割と有名な問題なので答えは知っている、という方も多いのではないだろうか。しかし、知らない人からすれば「は??? こんなのどれも問題ない行為でしょ!?」と思うかもしれない。こうした問題で判断をしていく力、リーガルマインドを磨く為には実際に裁判所が出した判例や、学者達の唱える学説というものを学んでいく必要がある。


 上記の問題の答えは②である。
 実際に法律を学んでいて当てた人、勘で当てた人、答えだけテレビで知っていた人、良く分かんないから答えまで飛ばした人、様々な人がいるだろう。解説をしていく。

 ①と③を見ていただきたい。②と違って対象物が自身の土地に接していることがお分かりいただけるだろうか。たけのこは相手の土地から自身の土地に侵入して生えてきた物。リンゴは相手の土地にある木から分離して自身の土地に落ちて侵入してきた物。なのでこの2つは自分の物になった。でも②の木の枝は自分の土地に接してないので自分の物じゃない。自分のものじゃない物を勝手にザクザク切っちゃったらダメ。以上! 閉廷!


 ・・・・・・いや、本当にこれだけなんだよ。ただ、このままだと、法律をちゃんと勉強している人々の地位が不当に下がってしまう危険性があるので説明をさせていただく。

 前述の説明でも、所有権が自分になかったからダメという点はお分かりいただけたと思う。①と③は法律的に自分の物になった、いわゆる所有権を得ることができたからOK。でも②は自分の物になってないからダメ。おそらく皆様が聞きたいのは、その「所有権はどうやって決めてるんだよ!」という部分であろう。そして勘の良い読者の方々は土地に接しているかが重要だと気付いているのではないだろうか。事実その通りである。

 土地に生えている木などの事を民法で「土地の定着物」と呼ぶ。この定着物は土地の所有者の物になる。文字通り土地に定着した物だからだ。そして②の状況では目的の木は相手の土地に生えている。つまり、この定義で考えれば木は枝を含めてまだ相手のものなのだ。
 もちろんこんな反論もあるだろう。

「そもそも、その定義がおかしくね? こっちは塀を越えて入ってるんだぞ? 泣き寝入りするしかないのかよ?」

 なるほど、もっともだ。塀を越えて自分の土地に入ってきた分を自分の物と定義した方が一見確実なように思える。ただ、私だったら以下のように反論するだろう。


分かりました! じゃあ、あなたの家の塀ギリギリまで切っていいです! その変わり1ミリでも切りすぎてこちらの塀を越えて被害が及んだら財産を侵害されたとして訴えますね! さあどうぞ! 切っちゃってください! さあどうぞどうぞ! おや! 風が吹きましたね! 枝の位置が風でズレちゃいましたね! そうするとぉ~~~!! これはぁ~~~!!! 切りすぎかぁ~~~!? ん~~~訴訟~~~!!


 正にシェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」のクライマックスである。「塀を越えたら俺の物」という定義にすると風が吹いたときや雨が降った時など、状況に因っての変化が大きすぎること、裁判所などの第三者から見た時の客観的な判断が付きにくいという致命的な弱点がある。というより裁判官も暇じゃないので税金を使ってわざわざ家に赴き、塀に登って「いいね~! 塀にピッタリ合わせてるね~! 合格~~~!」なんて検査してくれるはずがない。総合的にみて土地を基準としたこの定義が第三者からの判別基準として最も公平で効率的なのだ。

 ちなみに自分で勝手に枝を切ったのが問題なのであって、相手にお願いをして枝を撤去してもらえば何の問題もない。もしも切ってもらえないなら妨害予防請求権という民法の別の権利で強制させることもできる。泣き寝入りにはならないので安心してほしい。
 長くなったがここまで読んで読者の方々に質問をしたい。


条文にこんな定義が事細かに書かれていると思いますか?


 書いてあるはずがない。法律は議会で作られるものであるが、議員が真面目な顔をして、「民法の条文に『木から自分の土地に落ちたリンゴは自分のもの』という文を加えるべきだ」と議論をするわけがないのである。裁判所の方にこうした事件が実際に訴えられて、判決文で理由が事細かに書かれて、法学者がそれらの判例と条文を照らし合わせて「きっと明言されていないがこういう判断基準を使っているんだ!」と分析して学説を唱えていく。条文では直接規定されていない事例でも結論を出せるようにするために、法律のプロである裁判所や学者たちの判例と学説を学びリーガルマインドを磨く必要があるのだ。これこそが法律を学ぶ意義である。条文をただ暗記するのではなく、個別具体的な事件を条文を使いながら解決していく思考法を身に着けるのだ。

その思考法はなんの役に立つの?


 法律の勉強をする目的がリーガルマインドという思考法を身に着ける為という事は分かった。だが、それが一体何の役に立つのだろうか。確かに裁判官や検察官などの法律に携わる職業を目指すのであれば学ばなくてはならない要素である。しかし、別に法曹界を目指していない一市民の我々がリーガルマインドを学ぶ意義はあるのかと考えると、あまり想像できない。学問に「それは役に立つのか」という価値観を問いかける事自体はナンセンスではあるが、自身がそれを学ぶかどうかを考える場合は重要な要素になる。一般人がリーガルマインドを学ぶことで得られるメリットとはなんだろうか。

 個人的な所感であるが、リーガルマインドの合理的、客観的思考を他の分野でも応用できるという点が大きいように思う。さらに噛み砕いて言ってしまえば、「なんだろう? 言ってることは難しくって良く分からないんだけど、こいつの発言なんか違和感あるな」という場面で相手の何がおかしいのかを自分で理解しやすくなる。例えばこんな場面を想像してほしい。

 A男さんが家に帰ると、家の中が空き巣に荒らされていた。預金通帳やカード、現金類は全て盗られており父親の形見であった腕時計も盗まれていた。母親が仕送りで実家から送ってくれたリンゴは乱雑に食い散らかされ、テーブルの上に放置されていた。交際している恋人がプレゼントしてくれた手製のブレスレットは金銭的な価値がないと判断されたのか床に投げ捨てられており、バラバラになって壊れていた。
 A男さんは変わり果てた自身の家を見て、頭が真っ白になり動けなかった。そしてしばらくした後、警察に連絡をした。現場検証が終わったところでA男さんが警察に泣きながらこう言った。

 「お願いします! ヘリでもなんでも使って犯人を早く捕まえて下さい! なんなら射殺してください! 俺は犯人が許せない、アイツにとっては金目のものかもしれないが、俺にとっては大切な思い出が詰まった宝物なんです! このブレスレットだって彼女が不器用なのに一生懸命作ってくれたものなんですよ! 殺人とかの凶悪犯罪と比べたら空き巣なんてと思われるかもしれませんけどね! 自分が大切にしていたものがゴミ同然に荒らされて、当の荒らした人間はのうのうと生きてるんですよ! ひょっとしたらまた荒らされるかもしれないんです! こんなの悔しくてやり切れませんよ! お願いします! 特殊部隊でもなんでも使って犯人を撃ち殺して下さい!お願いします!」


 どうだろうか。空き巣はいわゆる軽犯罪であるが被害者に対する精神的苦痛はとても大きい。自分が安心できる空間が誰だか分からない人間に脅かされるのだ。今回の例では男性を使ったが、被害者が女性の場合は金品の他に下着を奪われたというケースもある。そうした場合、犯人がまた家にやってくるかもしれないと恐怖が募り、家に帰れなくなる事も珍しくない。だからA男さんの怒りと涙はもっともである。過激な発言をしてはいるが心情は察して余りある。
 ただ、ここまで読んでいただいた読者には、A男さんのこの理論がおかしい理由を考えてみて欲しい。怒りはもっともであるし、空き巣が卑劣な犯罪であることは間違いない。ちょっとA男さんに肩入れしたくもなるが、完全に同意もし難い主張である。ただ、なぜ同意し難いかを理論的に言語化するのはなかなか難しい作業である。


 答え合わせをすると、A男さんの主張は「比例原則」を無視している点で問題がある。まず比例原則について説明すると、目的の達成に対して必要以上に過剰な手段を用いてはならない、という法の一般原則である。

 例えば万引き犯がコンビニからおにぎりを盗んだとしよう。通常は比例原則が適応されるので、警官がコンビニの防犯カメラを確認して犯人を捜しながら、パトロール警官の配備などで犯人を追跡することになる。しかし、この比例原則が適応されないと、万引き犯を捕まえるためにサイレンを鳴らしたパトカー複数台がクッソ狭い道路を爆走し、上空には警察ヘリが騒音をまき散らしながら移動し、拳銃を抜いた大勢の警官、小銃を持った特殊部隊員が、犯人の逃げ込んだビルに突入し、最終的に屋上で追い詰められた万引き犯を射殺するなんて状況になりかねない。これはとても不合理である。
 万引きは確かに悪い事ではあるが、120円程度の損害の為に複数台のパトカーのガソリン代、ヘリの稼働代金、大勢の警察官と特殊部隊員の人件費、使用された銃弾の費用を考えると大赤字である。税金の無駄遣いどころの騒ぎではない。そしてパトカーの爆走に伴う交通渋滞での経済的損失、車両衝突による死亡事故リスクの増加、警官隊のビル突入に伴う入居企業の業務停滞、そして犯人の命の損失。こうした諸々のリスクを冒してまで万引き犯の逮捕が優先されるべきとは言えない。また犯人の射殺に関しては警察官職務執行法という法律で、「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。」と規定されており、ここでも比例原則が使われているのを確認できるだろう。だから前述のA男さんの「ヘリでもなんでも使って」や「犯人を射殺して下さい」の発言は、怒りで周りが見えていない発言。転じて言えば、A男さんの発言は結果として「俺の無念が晴らせれば、犯人も他の人間もどうなったって良い」という意味を帯びることになる。だからこそA男さんの発言は問題なのである。
 とは言え、A男さんの心中を考えたらこの言い草はあんまりじゃないか、と思う人もいるだろう。
 では、空き巣の犯人が捕まった場合に、このように供述した場合はどうだろうか。

「先日、経営していた飲食店が倒産しました。バイトの学生がSNSにふざけた動画を投稿したため、お客さんがぱったりと来なくなったんです。損害賠償請求で慰謝料を払ってもらう事が決定しましたが、相手の資力がなく、返済がいつになるのか分かりません。雇用主だった為、失業保険も受け取れず、嫁と子供は家を出て行ってしまいました。預金は借金の返済で全て無くなりました。もう3日ほど水のみで生活しています。途方に暮れて歩いていると、窓が開けっぱなしの家があったんです。もう生き残るためには盗みしかないと思いました。金目のものは全て盗みました。現金、カード、高級時計……。あらかた盗り終わったところで、段ボールに大量のリンゴが入っているのを見つけました。まともに食事にありつけていなかった私は欲望を抑えられず、リンゴにかぶりつきました。故郷の父と母の事を思い出し、泣きながら食べました。しばらくして外で人の足音が聞こえたんです。家主が帰ってきたと思い、私はあわてました。ブレスレットはその時に落としてしまいバラバラになってしまいました。捕まりたくないという一心で、私は一目散に逃げました。被害者の方には誠に申し訳なく思っています。」


 犯人の供述がこのような物であった場合でも、A男さんの主張通りに裁判を経ずに現場で射殺すべきだったと思うだろうか。A男さんの主張は犯人は全ての行為に純然とした背信的な悪意があるという前提で解釈をしているが、犯人の証言が真であるのならば、純然とした悪意があったわけではなく、たまたまそう見えただけと解することが出来る。この差異は軽微なものに見えるかもしれないが、犯罪の凶悪性、再犯性の考量という点で判決に影響を与えるものである。A男の証言を鵜呑みにして、この重要な要素を見落とすことは公平性の観点からあってはならない。裁判官はA男の家族でも恋人でもない、あくまで第三者の他人である。メンタルケアは身近な人間の役目であり裁判所の役目ではない。そして、Aと犯人、いずれかにえこひいきをせずに、それぞれの事情を鑑みて適正に判決を下す必要がある。だから、リーガルマインドは良い意味でも悪い意味でも客観的なのである。

 そうした点で、リーガルマインドを学んでいると「今自分は客観的に判断ができてるのか?」と思考を内省しやすくなる。犯人は倒産などの事情を抱えている、百歩譲ってそれは関係ないとしてもA男は窓を開けっぱなしにして外出していた。ならばA男には悪意はなかったとしても、過失があったと言えるのではないか。犯人が悪いのは間違いないがあまりにもマヌケだ。むしろ窓が開いていなければ犯人に犯行を決意させなかった可能性まである。A男の意見に肩入れするのは危険だ、と評価を下すことが出来るようになるのだ。このようにリーガルマインドを使えば、「誰が」、「何が」、「どのように問題なのか」が分かるようになる。


おわりに


 条文を知っている事は確かに重要である。恐らく即効性を持って役に立つのは条文を知っていることである。だが、その条文がどのような場面で適応されるかを知らなければ付け焼刃である。

 むしろ議論の仕方が分からない、言いたいことがまとまらない、相手の意見に違和感があるのに何が問題か分からない、という人には条文なんか捨て置いて、リーガルマインドを育てた方が実生活でハッピーに生きていける。学ぶ事は手段であり、目的は幸福に生きる事、不幸を最小化することである。その点では強弁で支離滅裂な他者から自身を守ることが出来る。なにより重要なのは、自身の致命的な間違いを減らすことが出来る。誰かに情で肩入れして、蓋を開けてみたら自分が間違っていたという状況になりにくくなる。

 世の中には正解が一つではない、という事をいやというほど思い知らされる。確かに正解は一つではない。だが、絶対に正解としてはいけない物は確かに存在する。リーガルマインドの真なる利点は、致命的な間違った答えを選びにくくなる、という点にあると思う。これは数手先を読む力よりもよほど重要だ。

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