「物語化」について思う事

 アメリカの作家エルバート・ハバードは「人がお互いをよく知れば、憧れも憎しみも生まれないだろう」という言葉を残した。しかし現実ではおびただしい数々の人間とすれ違う。時には見知らぬ男に肩をぶつけられてムカついたり、時には初めて見る店員の雑な対応に青筋をたてたり、横柄な客の態度に殺意を抱くこともある。そんな縁もゆかりもない自然災害と等しい遭遇率の人々の心情や原因を理解しようとするのは現実的ではない。肩をぶつけた男を捕まえて「なぜ謝りもせずに通り過ぎた? 責めてるんじゃない、理解したいだけだ」と言えばこちらが不審者扱いだろうし、態度の悪い店員に理由を聞けばクレーマーにしか見えない。ひょっとしたら横柄な客は予想外の出来事にビビって帰ってくれるかもしれないが。
 そうした時にしばしば我々は物語化をする。なぜそのような事が起きたかを数少ない証拠を基に類推する。肩がぶつかった男の事を「きっと仕事に遅れそうなんだろう」と思えば少しは許す事が出来るかもしれないし、「まともな教育を受けてなかったんだな」と結論付ければ男に憐れみを、日本の将来には憂いを抱くかもしれない。「あの男は俺を嫌っているからぶつかってきたんだ!」と結論付けたら逆効果であなたは怒りの炎をより燃え上がらせることになる(もっともこれを本気で思っているなら心の病気だ)。我々は物語化でおよそ理解が出来ないものを理解しようとする。それによって恩恵を得る事もあれば、誤って自身や他人に不利益を与える事もある。
 いずれにしても、我々は常に何かしらの事象を物語化して判断を下している。そこに否定の余地はない。

 例えば、オタクは犯罪者予備軍
 例えば、金持ちは心が卑しい
 例えば、貧乏人は心が優しい
 例えば、性犯罪者に多いのは汚い中年男性
 例えば、女性は感情で判断して理性的ではない
 例えば、殺された被害者にも原因があるはずだ
 例えば、ゲイは青ひげでオカマ口調
 例えば、うつ病にかかる人間は普通の人より心が弱い
 例えば、団塊の世代はクソみてえなヤツしかいない
 例えば、ゆとり世代は頭がおかしい
 例えば、暴力的なゲームをやると暴力的な子供になる


 こうした言説を一回も聞いたことがない上に、一回も納得したことが無い人間だけが物語化をしたことがないと否定できる。上記はネガティブな物語化の事例列挙だが、世間で声高に叫ばれていたものであるが故に分かりやすい。
 物語化は心理学でヒューリスティックスと呼ばれる概念に近いように思う。ヒューリスティックスは俗にいう直感である。必ず当たるわけではないが大体当たる推察だと思ってくれればいい。
 例えば目の前からニタニタとこっちを見て笑いながらよだれを垂らして近づいてくる包丁を持った男がいた場合、大抵の人間はこの男に殺されると予想してすぐに逃げ出すだろう。これがヒューリスティックスである。対して決まった手順で理詰めで考える事をアルゴリズムという。アルゴリズムの長所は手順通りに行えばだれでも確実な結果を出す事が出るという点であるが、ヒューリスティックスと比べて結論を出すのに時間がかかる。だからアルゴリズムを徹底した場合以下のようになる。

「包丁を持っているが、サザエさんみたいに料理中にネコを追っかけていただけかもしれない……でもエプロンをしていないという事は料理中ではないのか……表情は……なぜ俺を見てニタニタと笑っているんだ……誰か知り合いと勘違いしているのか……そういえばなぜよだれを垂らしているんだ……そういう疾患を患っているのか……やべえ色々考えていたらもう目の前に来てるうわあああああ刺されたァァァァァぁァァ!!!」

 極端に書いたが情報精査に時間がかかる点、確定した答えを出す為の情報収集に時間がかかる点、こうした要素がアルゴリズムの弱点でもある。ヒューリスティックスは万が一こちらの勘違いだったら相手に失礼だが自身の死亡という最悪の状況は回避できる。だから我々は十分な情報が集まっていない、かつ迅速に判断を下さなければいけない場合にヒューリスティクスは効果的である。そうした際に重要になってくるのがシグナルである。シグナルは目立った特徴だと思えばいい。リーゼントの人を見た時に不良だと思ったり、顔に大きな傷がある人を見て暴力的な人と判断する場合、この「リーゼント」と「顔の大きな傷」がシグナルとなる。リーゼントの人間が不良という考えの根拠はメディアなどで出てくる昔の不良にリーゼントの人間が多い事が挙げられる、昔の不良をコンセプトにしているアーティスト、氣志團のメンバーもそうした意図を持ってリーゼントにしている。ヒューリスティクスは相手のシグナルを発見し、そのシグナルに対する自身の知識や価値観を参考にして結論を出すという思考手順を辿っている。顔にある大きな傷を見た場合は、そんな傷がつく程大きな争いをするような気性の荒い人間なのだろうという価値観から、暴力的な人間なのだという推論が働く。しかしここで注意しなければならないのは、シグナルに対する知識が浅い場合、または別のシグナルを無視した場合、誤った結論を出してしまうという事だ。
 例えば顔に大きな傷がある人で考えてみた場合に、それが事故によってついた可能性も存在する。自動車事故や工場での作業中の事故、またはハイキング中に野生動物に襲われたなんて可能性もある。あるいは顔に大きな傷がある人が女性であった場合、話はもっとややこしくなる。男性であればケンカでもしたんだろうと考えても差し支えないが、女性の場合そうした推論が難しくなる。なぜなら男性と比べて筋力に難のある女性がそうしたリスクを冒すような状況に陥るのが考えにくい。更に言えば自分の顔に傷がつくという事に対して、男ですら恐怖があるのに女性の場合はもっと嫌悪感があるのではないか、という推論も可能だ。ともすれば女性が自身の顔が傷つくのを考慮せずに自身の気性の荒さでケンカをして顔に傷を負ったという可能性は考えづらい。となれば近親者から暴力を受けているのか、あるいは不幸な事故に巻き込まれたと考えるのが妥当だろう。しかし、もちろんその女性が気性が荒くケンカをして顔に大きな傷を負ったという可能性もゼロではない。という風に、知識不足や価値観との相違によって結論付けが難しい状況も存在する。もしあなたが医学に明るく、傷の形状をみてそれが工具によるものか動物によるものか、あるいは人の攻撃によるものかを判別できる知識があればこんな風に悩む事はないが、悲しいかな人間全員にその知識があるわけではない。ヒューリスティクスは知識を研鑽すればアルゴリズムに近い推察を短時間で行えるが、転じて言えば知識がない人間には向かない手法なのだ。我々はシャーロックホームズの推理、メンタリズム、あるいはサイキックの読心術などに憧憬の念を抱くが、彼らがやっているのは高度な心理学の応用、知識の総動員、統計学的データの利用であって、誤解を恐れずに言えばバカには出来ないものなのである。

 冒頭の物語化におけるネガティブな例を挙げたが、これらの中には事実無根な物もあれば、あながち間違いではないものも存在する。例えば「暴力的なゲームをやると暴力的な子供になる」は全くの事実無根ではない。心理学の実験において暴力的ゲームなどの主体的、能動的なメディアに関しては悲しい事に他のメディア作品よりもより攻撃性を助長する効果があると報告されている(アンダーソン、2007年)。しかし平成12年版の警察白書で過去の犯罪の推移を見ていると、傷害や恫喝などの粗暴犯、凶悪犯、殺人犯などは過去50年の中で減少傾向となっていることが分かる。暴力ゲームが台頭してきたのが2000年以降と仮定しても、暴力ゲームが発売していなかった昭和の時代と同等か、あるいはそれよりも少ない事件の認知件数、検挙率なのだ。ともすれば暴力ゲームのみで暴力性を語るのはナンセンスであり、他にも要因があるだろうということが読み取れる。しかし暴力ゲームという分かりやすいシグナルはそれだけで目立つ上に、子供のいる親からしてみれば情報の精査よりも大切な子供を悪影響を及ぼす何かしらのコンテンツから可及的速やかに引き離す事の方が重要だ。という事もあって情報の真贋など関係なくヒューリスティクスが働いてしまうのである。そして最悪なのはまったく別のところに問題の原因があるにも関わらず、それを置き去りにして的外れな規制にばかり時間と金を導入してしまうことである。勤務先でも政治でもなんでもいいが、各人何かしら思い当たることがあるだろう。ともかくヒューリスティクスで危機を回避するはずが逆に危機の原因を読み違えて長く付き合う結果になってしまうという事例は珍しくない。そうした際に効果的なのは別の仮説を立てる事である。
 冒頭の肩をぶつけてきた男の話で私が行ったように考えられうる可能性を列挙するのである。わざとなのか、急いでいるのか、それとも悪意なのか。そしてそれらの中で情報を客観的に考慮して最も可能性が高い説を採用するというのが理想である。いわばアルゴリズムとヒューリスティクスの中間である。推理はあくまで「推測の理論」であり科学の様に絶対的な一つの結論がでない分野なのだから、可能性が最も高い仮説を採択するのが妥当なのだ。そしてその精度を高めるために知識をつけなければならない。もちろん人間の感情も理解しなければならない。簡単だ、自分がそういう行動を起こす時はどういう時かを思い出せばいい。全く理解が及ばない時は、それこそ自分の知らない学ぶ余地のある世界である。もっとも学ぶべき物かどうかは見極めなければならないが。
 文学界隈(で、よく聞くように思う)で使われる「物語化」はヒューリスティクスと近似の概念であること。物語化は日常生活でありふれているものであり緊急の危機回避に役立つが、使い方を誤ると自己に不利益をもたらしたり、他人に対して偏見のような人権侵害を起こす可能性があること。ヒューリスティクスはシグナルに対する知識や価値観等の理解を深めることによって精度を上げることができ、アルゴリズムに近い結論を短時間で出すことが出来る事。誤った物語化を防止する為に他に可能性の高い「物語」が無いか仮説を立てる事。これが本論の全てである。メンタリストや心理学の本を読んだだけの付け焼刃の知識では、精度の高い物語化の技術はモノにできない。そういう物を知っているから俺は人より真実を知っていると思いあがる人間ほど、恋人や妻の髪型の変化にさえも気づけはしないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?