なぜ人は表現をするのか?

 noteなるものを初めて書く。書く題材もこれしか浮かばなかったので少し昔話をさせてほしい。
 私が小説を始めて書き始めたのは高校生の時であり、筆を折ったのは大学四年生の時だった。始めた理由は、好きだったギャルゲーがアニメ化した際に酷い原作レイプが発生したことに因る。

「テメーらよりも、本を読まねえガキの方が良い物語を書けるんだぞ!」

 これが今でも明瞭に思い出せる、当時の私の憤りである。この若さゆえの傲慢が私に小説を書かせる発端であった。いや、でも本当にアニメは酷かったんだ。マジで。

 この時点では別に小説という表現方法にこだわりは無かった。なんだったら漫画を描きたかったが、そもそも絵の才能が周りより致命的にないことは自身でも理解していたので真っ先に除外した。他の表現媒体として映像も大いに心惹かれたが除外した。映画は一人で作るというより多人数で作るものというイメージがあったし、悲しいことにそこまで人を集められる程友人には恵まれていなかった。ぼっちではないが。繰り返す、ぼっちではない。

 小説という媒体を選んだ理由は前述の消極的な理由だけではない。たまたま当時、ケータイ小説なるものが流行り出し、自分がやっていたSNSでもその投稿機能が実装された。だから文字をポチポチ押せば小説が投稿できるような手軽な土壌がすでに出来上がっていたのだ。間口が低く入りやすいというのはクソガキからしてみればありがたい事であった。なにより、空きの時間に一人で少しずつ進められるという事が一番大きかったように思う。田舎の電車は待ち時間も移動時間も長いので退屈しのぎにもってこいだった。多分当時スマホが存在していたら廃課金勢となり、表現行為を行う事などなかっただろう。

 紆余曲折あって大学に進学した私は、他にも小説を書いている同級生、先輩方と出会った。自分以外に多数の小説を書いている人間がいるという事に驚いた。今でこそ小説を投稿できるネットサービスが大量に存在し、Twitterなどで気軽に交流して同年代の創作仲間を見つけることが容易だが、私が生きていた当時はそれらがまだ充実していなかったころであり(私自身も奥手であった)、なにより同年代の若者で小説を書く人間がたくさんいるという事実は衝撃的だった。
 ぶっちゃけた話、小説が趣味というのは、いわゆる若者の普通の趣味ではないと思っていた。クラスの人気者の陽キャはサッカーや野球などのスポーツで友情(笑)を深めていて、運動が苦手なインテリは読書してるか、将棋とかの誰でも知っている知能ゲームをやっていて、反抗期バリバリのヤンキーがロックバンドで楽器をやってる、というステレオタイプの物の見方をしていた。これは全部、親が私に押し付けてきた「健全な趣味」の知識量が浅かった事に由来する。そうした事もあって、「何が悲しくて趣味で小説を書いてるんだこいつらは」と自分を棚上げして思っていたものだ。反面、今思い返してみれば「趣味は小説です(キリッ)」ていう高校生は特別なのではないか、という若干ダメなアイデンティティの確立の仕方をしていた気がしないでもない。関係者各位には許してほしい。

 とにかく、そうした友人にも恵まれてフリーペーパーを企画して発行したりと、一人では出来ないことを色々と経験することが出来た。反面、自身の文章力の無さを思い知った。井戸を出たカエルは世界の広さに感動したが、それ以上に自身の矮小さを痛感して身を裂く思いだった。大学は日本中から人が集まるという点で、こうした視野の拡張を否応なしに行うのが利点だと思う。

 こうして、推薦入試の時に審査員の教授に「小説家になりたいんです!」と声高に語った学生は、格闘ゲームとFPSに明け暮れ、表現を捨てた。そしてその見返りに、聖ソルのドラゴンインストール殺界を成功できるようになったのである。費用対効果が控えめに言ってゴミである。

 卒業論文の作成に伴い、否応なしに本を読むことを強いられる大学四年生。通常授業でも参考文献は必須だが、大体は学術書であった為、小説や物語を読むということはあまりなかった。だから、本に穴が開くくらい読み込んだこの経験は私を多少は進化させてくれたと思っている。結論から言うと、読書量が少なかったために自身の文章スタイルが確立していなかったというのが当時の課題だったと思われる。会話文で繋げていく事は苦ではなかったが、人物描写や場面描写、そういった地の文の作り方がクソザコ弱弱マンだった。そして、趣味で本をたくさん読んでいる人間に試しに小説を書かせてみると、そうした点での描写がやはり上手く、私は嫉妬の炎に身を焦がれ、頭がおかしくなって死にそうになった。やはり、無意識にでも経験値という物は溜まっていくらしい。

 閑話休題

 西尾維新テイストを悪戯にぶち込んだところで卒論の話に戻る。
私のゼミは戯曲を扱う演劇系のゼミであった。シェイクスピア作品を中心として喜劇や悲劇などの戯曲を読んだり、あるいは映像などを見て論じることを中心にしていた。戯曲は会話文での進行と簡素な状況説明(主に機材の動作、演者の仕草など)で進んでいくため、地の文を書くことが苦手な私でもこの形式なら書けると思った。そうして不条理演劇の影響をバリバリに受けた戯曲が完成し、劇団をやっていた後輩に台本を譲渡した。上演はされていない。この戯曲を最後に私は筆を折った。

 私が小説という表現媒体にこだわりが無かったのは、賢明な読者諸君にかかれば前述の内容でお分かりいただいていると思う。というより、大学生になってからは、反骨精神溢れた表現の為の動機さえも消え失せていた。時間の経過で簡単に消え失せるのだから、動機の高尚さなどクソの役にも立たないという実例である。とはいえ、小説から戯曲に手段を変えてはいるものの、表現を行う事自体は辞めていなかったのが不思議である。
 考えてみて欲しい。元々私は金を貰ってシナリオを書いている大人に自身の好きな作品を汚された(と、思っていた)から創作を始めた訳だ。しかし、その動機が無くなったのであれば表現を続ける理由がない。そこらの学生と徹夜で麻雀をやったりカラオケ行ったり資格試験の勉強で将来に投資したりゲームに明け暮れて悦楽に興じていれば良かったのだ。それなのになぜ表現に固執したのか。完成させる為に頭を抱えて、溜息を何度も吐いて、祈りながら文字を打ち込み続けたのか。そこに「なぜ表現をするのか」という解があるのだろう。

 個人的所感であるが、「表現をすること」は救済を求める祈りであると考えている。表現媒体にも色々な種類がある。小説、漫画、映像、演劇、音楽、等々。表現は基本的に発信者たる自分と受信者たる相手の双方が存在して初めて成立する。どこぞの画家が「作品は観客に見られた時に初めて完成する」と言っていたこれは素直にその通りだと思う。表現を行うにあたって誰かに作品を見られるという事は多少なりとも想定するところである。転じて言えば、相手に聞いてほしい、分かって欲しい、共感してほしい、伝えたいから一般抽象的な「相手」に表現を発信する。その伝えたいことは様々だろう。「自分の推しキャラのカップリングを布教したい」、「自分の抱く問題点を提起したい」、「自分の考え、趣向に正当性があるか民意を問いたい」、「バズってちやほやされたい」、他にも色々あるだろう。そこに前時代的な表現に対する崇高さなどない。必要ない。表現は個人的に好きな時に始めて、好きな時にやめればいい。選ばれた才能ある人間にしかできないものではない。俗な事だ。表現者は自分の表現に「誰か」が反応することを待っている。もちろん、日記などの例外はあれど(受け手を未来の自分と設定すれば無理やりこじつけられるが)基本はそう考えていいだろう。

 表現は俗な事であるが故に魅力的である。自分の欲望や承認欲求という社会的にゴミであるものを、社会的に一定の価値のあるものに作り替えることが出来る。防衛機制における昇華に当たると考えている。政治に関する耳障りな中年のボヤキだって、社会派小説に作り替えればまあ見れるようにはなる。思春期の青少年の女子に対する羨望を恋愛小説にすれば形になる。さながら錬金術である。自分の中の経験や知識、完成が価値あるものに変化するという部分に表現への羨望と期待がある。そしてその部分にばかり目が行ってしまい、それを生み出す苦痛を蔑ろにしてしまう事も多い。「作品を完成させるのは出産と並ぶ苦しい行為だ」とは誰の言葉であったか。とにかく、ゴミをどのくらいの宝物にデコレーションできるか、そしてどのくらいの早さで作り替えることができるかが表現者としての技量の一つであろう。

 表現は幸福で満ち足りている人間ならやらなくていいものである。もしもあなたは貧困に喘ぐことなく、国家の制度に不満を何一つ抱くことなく、挫折を味合わず、自身の想いが正しく伝わらず後悔した経験もなく、孤独でもなく、自身が今立たされている状況に悩みどうしたら良いのか途方に暮れている訳でもないのであれば、表現なんてする必要もないし、受ける必要さえない。だがこの実存主義が蔓延り、盲目的に信じられていた家族の絆さえ価値がストップ安のこの時代で、孤独に喘がず幸福で満ち足りている人間などまずいない。信じられる実存が自分自身のみと、家族や友人の中でも孤独を感じてそれを確信しながらも、表現で誰かに触れあおうとする。これが救済への祈りではなくてなんだというのか。

 結局、筆を折ったはずの私でさえも今こうして文字を打ち込んでいる。気兼ねなく話せる友人はいるが、それでも全てを話せるわけではない。言葉にし辛く語るのを諦めた話題だってある。このような粗雑な文章を私は数日掛けて書いているのは、このnoteという媒体に心が救いを求めているということだろう。今後もこのような形で、なんとか私の中のゴミを飾り付けて提供していければと思う。なので、ここまで読んでくれた方の中に、もしも表現に興味がある方がいたのならば、是非気楽にやってみて欲しいと思う。自身の欲求に見て見ぬふりをして生き続けることこそ、自身の表現物を否定されることよりも悲劇的な事なのだから。

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