008 外国語学習履歴-大学時代
刺激的な浪人生活を経て入学したのは都内の私立大学だった。全国的にかなり名前の知られた大学だ。入試の際の学部別偏差値も60を超えていたからそこそこ難関の部類に入るだろう。
大学で学んだ外国語は英語と第2外国語として選択した中国語。英語の授業は基本的にはリーディングの授業だった。私の専攻はその性質からしても英語が好きだという人があまりいなかったように思う。講師もそのことが分かっているのか、ゆっくりのんびり出席重視で授業をしていたと思う。正直言ってその程度のものだ。ただし、英語自体とはその後も長く付き合っていくこととなる。
そして初めて触れた中国語だが、大学における中国語とは今でもそうだが基本的には「北京語」のことである。他の外国語も幅広く選択できたが、私の専攻では専門課程との関連性を考慮してか中国語やハングルを選択する者が多かった。授業は週2コマの授業を2人の講師が1コマずつ担当しており、テキストもそれぞれ異なっていた。1つは日本人講師、もう1つは中国人講師の担当だったが、なぜか中国人講師の授業はまったく覚えていない…。
日本人講師の使っていたテキストは『我是猫』というタイトルだった。つまり夏目漱石の『吾輩は猫である』のことであり、この物語の世界を題材にして単語や文法を勉強するというコンセプトだった。かわいいイラストもふんだんに使われており、なんとなく取り組みやすい気がした。もちろん簡体字が使われているのだが、当時は日本の漢字よりも略していることが単純に「楽だ」と感じた。そしてそもそもが漢字だから文章の意味も初めからそこそこ理解できる。2年間で学べる内容が基礎レベル止まりだったこともあるが、文法もさほど難しく感じなかった。ただ、ピンインと声調で苦労したことを覚えている。
台湾華語を勉強し始めた今だからよく理解できることだが、漢字を書くことや意味を取ることは比較的楽だし、それで中国語がそこそこ「できる気になってしまう」のは日本人だからこそ起こり得る問題だ。その意識により、いちいち覚えるのが面倒くさいピンインと声調から逃げてしまいがちなのもやはり日本人に多い傾向だと思う。特に大学でなんとなく選択した程度であればその傾向はより顕著になる。
担当した講師もそれを分かっていたのだろう。とにかく「ピンインで書けるように!」と何度も言っていた気がする。毎回の授業では黒板に書かれた中国語の短文をすべてピンインのみで表記するという課題が出たり、定期試験でも同様の問題が多く出されたが、みんなこれが一番苦手だった。
そして、2年間中国語を勉強した割にはその後の専門課程の授業にはほとんど活かす場面がなかったというオチが待っており、一緒に授業を受けていたほとんどの者にとって中国語はただの一時的な教養と化した。そして教養も活かさなければ記憶から即座に消えていくのだった。
しかし今、10数年の時を経て、偶然にも台湾華語という形で再び中国語に触れている。感慨深いことなど特にないのだが、こうして忘れ去ったものが再び自分の元に巡ってくる。生きているとこんなこともあるものかなと、ふと思ったりしている。