見出し画像

〈猫撫で声〉にご用心

金儲けのため、あるいは、人からの注目を浴びることで、自身の存在価値を確認するために、多くの人が、自分を「いい人」だとアピールする。

だが、大人なら誰だって、本当に「いい人」なんて滅多にいないということくらいは知っているはずだから、あちらでもこちらでも「ようこそ、おいで下さいました」「多くの中から、ここを選んでくださり、ありがとうございます」なんていう、殊更に謙ってのバカ丁寧な物言いは、相手を惹きつけてカモにするためのものだということくらいは、理解できて然るべきであろう。

しかも、右を見ても左を見ても、そんな看板ばかりが立っていたら、うんざりするのが当然だと思う。そして、そうした猫撫で声の濫立に対して、アスカ・ラングレーのように「気持ち悪い」と吐き捨てたくなるはずだ。

ところが、人というのは、何ごとにもすぐに馴れてしまいがちで、そういう言葉が氾濫していても、特に何も感じなってしまうし、さらにはそれが「普通」だと感じられるようになるから、いつのまにか、そんな猫撫で声を自分でも使ってしまっていたりする。

なにしろ、私だって食っていかなきゃならないんだし、人にも好かれたい。ならば、人に好かれるような、丁寧な言葉遣いをすべきだ。仮に、内心ではどんなに毒舌で「クソばっかり!」だなどと吐き捨てていたとしても、それを面に出したら、好かれるどころの話ではなく、敬遠されて当然だろう。だから、自分は自分自身を守るために、二枚舌でも猫撫で声でも使うよ。一一と、そう考える人は少なくないだろう。

それもわからない話ではないけれど、でも、そんなことやってて、疲れない?

別に多少は嫌われたっていいじゃない。みんなに好かれようととするから大変なんであって、好いてくれる人が何人かでも見つかれば御の字だとは考えられないものかな?

そもそも、人の猫撫で声を「気持ち悪い」と感じる人が、自分が生きるだとは言え、心にもない猫撫で声を出していたら、自己嫌悪になるんじゃないかな?
演技だと自覚してるから大丈夫だ、って人もいるだろうけど、でも、あなたの猫撫で声を心底「気持ち悪い」と思っている人がいることわかってて、しかもその評価が正しいのだと自覚していればこそ、自己嫌悪は避けられないんじゃないかな。

仮に避けたつもりでいても、それは心理的に抑圧され無意識化されているだけで、自己嫌悪がない、ということではないのではないかな。

だとすれば、抑圧された自己嫌悪のマグマは、いつか噴出して、あなたやあなたの周囲の人を傷つけるという、悲惨な末路に至る、そんな怖れは、本当にないんだろうか?

私が言いたいことは、簡単だ。
要は、もう少し、自分に正直になって、本音で語った方がいいよ、ってこと。

それで嫌うような人と付き合い続けるのは、そもそも疲れるだけだし、猫撫で声でつないでおけるような人なんて、本質的に薄っぺらな人間だ。

だから、全方位に向けて「私を好きになって」「私を高く評価して」などという無理なアピールをするのではなく、一人でもいいから、本音の部分で共感できる人を探すべきではないかな。

そんな自信はない?
でも、一人や二人は見つかると思うよ。
上っ面だけの百人よりも、一人の親友だとは思わない?
友達なんで、五人もいれば十分で、十人もいたら、満足に付き合いきれないんじゃないかな?

.