チャイコフスキー『実践的和声学習の手引』の翻訳が出版されます
このたび、音楽之友社さまから、チャイコフスキー『実践的和声学習の手引』(以降、『手引』)の翻訳が出版されます。訳者の山本と申します。
発売日は10月中旬、定価は4950円(税込)です。もうすぐですね!Amazonや楽天ブックスで予約できるようになっていますので、もしよろしければぜひご予約いただけると嬉しいです!
英語圏の書評では、「大作曲家から和声を学べる貴重な書籍だ」と好評です。1872年の本ではありますが、現在でもアクチュアルな知識が多分に含まれており、チャイコフスキーの創作の基礎をなした和声や調性や、和音の用い方についての考え方を知ることができる、興味深い本になっていると思います。
『手引』自体の日本語訳が出版されることは初めてです。チャイコフスキーがこの本を書いたのが1871年、出版したのが1872年ですから、実に150年越しの出来事になります。
さらには、ロシア語原典から訳されたドイツ語版が出たのが1899年ですから、原著からの本書の翻訳は123年ぶりということになります(1900年に出版され、近年もリプリントされた英語版は、ドイツ語版からの重訳です)。 (さらにちなみに……しっかり調べたわけではないのですが、チャイコフスキーの著作が日本語に訳されること自体も、チャイコフスキーのパトロンだったメック夫人との書簡を訳した『愛の書簡』(服部竜太郎訳、1962年)から60年ぶりのことのようです。)
この記事では、日本ではあまり知られていないと思われる『手引』がどんな本なのかを紹介したいと思います。ぜひ、この記事を通してチャイコフスキーと『手引』に興味を持っていただけると嬉しいです。
とはいえ、『手引』の訳者あとがきでかなり踏み込んだことまで書かせていただいたので、ここでは必要最低限の情報以外、なるべく重複を避けて書きたいと思います。もしご興味がありましたらそちらもお読みいただけると幸いです。
どんな本なの?
『手引』は、言わずと知れた大作曲家、チャイコフスキー(1840〜1893)が書いた和声の教科書です。和声(ハーモニー)とは、音楽の理論の重要な分野の一つで、主に和音をどのようにつなげるといい響きが得られ、いい音楽ができるのか――逆に、どのようにつなげると悪い響きになってしまうのか――を学びます。これが重要なのは、作曲家を目指す生徒だけではありません。音楽の三大要素といわれる旋律、和声、リズムの一つを体系立てて学ぶことは、演奏家にとっても非常に大事なことです。自分が今演奏しているのがどのような和音なのかを判っていないと、音楽を表現する際に矛盾が生じたり、不自然に聞こえたりしてしまうからです。
しかし、ロシア国内ではそのような大事な分野の教科書の執筆に取り掛かろうとする人はチャイコフスキー以前にはほとんどいませんでした。和声に関する論はいくつか存在していましたが、すべて小規模・非体系的なものでした。そして、音楽学校での和声教育は、西欧の教師について学んだ人々が、その知識をまとめて生徒たちに口伝で教える、という形でしか行われていなかったのです。
この意味で、チャイコフスキーの『手引』は、ロシアで最初の和声教科書と言われることとなります。
『手引』ができるまでのチャイコフスキーの足取りを追ってみましょう。
チャイコフスキーは、1866年にペテルブルク音楽院を第一期生として卒業し、その後すぐ新設のモスクワ音楽院で教鞭を執ることになります。
モスクワ音楽院でチャイコフスキーは、本格的にロシアの音楽教育に携わり、またシューマンの『若い音楽家への助言』などの様々な手引書の翻訳を通じ、音楽を、和声をどのように教えたらよいのかの知識を蓄積していきました。
教師にも学生にも和声の教科書の需要はあるのに、それがロシア国内にほとんど存在しないことは、チャイコフスキーにとっても身近な問題でした。エルンスト・リヒターの定番の教科書『和声教本 _Lehrbuch der Harmonie_』の翻訳はあり、チャイコフスキーも実際にその意義は認識していたものの、それだけでは人々の需要を満たすことは出来ないと考えていたようです。
そして1871年、はっきりとした経緯はわかっていないのですが、おそらく出版社から依頼を受けて、それまでの授業の内容をまとめるという形で『手引』を書き上げ、翌1872年にユルゲンソン社から出版しました。すると、この本はベストセラーに。チャイコフスキーの生前から4版を重ね、没後にはさらに3度再版され、ドイツ語訳、英訳も出るほどの著作となりました。
チャイコフスキーがこの教科書を用いて和声を教えたことはもちろんのこと、彼の次の世代の作曲家たちも、この教科書を用いて授業計画を立て、生徒たちに和声を教えていました。例えば弟子セルゲイ・タネーエフは1878年から1882年まで『手引』を授業内で用い、その後も『手引』に倣って授業の順序を決めていました。タネーエフの弟子、つまりチャイコフスキーの孫弟子にはラフマニノフ、スクリャービン、メトネル、ヤヴォルスキーなど、ロシア・ソヴィエトの音楽文化に大きな役割を果たす人々がいたことは重要です。彼らはチャイコフスキーの教科書か、その構成に沿って和声を学んだのです。
さらには、リムスキー=コルサコフが『実用和声教科書』(日本語版は菅原明朗訳『和声法要義』、1953年)を書く際にも『手引』が参照点になりました。チャイコフスキーによるロシアで初めての和声の教科書は、後の世代の基準になったのです。
構成と内容について
『手引』は、序文、本書を理解する際のごく基本的な知識を提供する「音程の学習」、本編である「和声の学習」(全5編、34章)からなっています。以下に示すのが全体の構成です。
単純な構成による協和音から始まり、不安定で複雑な不協和音へと徐々に移り、最終的に発展的な「転調」、「偶発的な和声」へと至ります。ですから、初歩的な内容から少しずつ難しい内容へ、段階を踏んで進んでいく、丁寧でわかりやすい構成と言えるのではないでしょうか。
全部合わせると365を数える譜例も、本書の理解のしやすさに一役買っています。
(ちなみに、原書/英訳版の譜例には誤植がかなり多かったのですが、校正の際に森垣桂一先生が直してくださいました。)
特別な解答集は設けられていませんが、章末には練習問題があります。課題数はそれほど多くないので、もし志のある方は試しに問いてみてはいかがでしょうか。
以上の内容の中で、少し理屈っぽい「序文」にはチャイコフスキーの「我」のようなものが全面に出てこそいますが、その他の箇所では作曲家チャイコフスキーの姿は背面に退き、和声の理論をわかりやすく語る良き先生、良き語り手に徹しているように見えます。
しかし、この地の語りにも、チャイコフスキーの和声や調性についての美学がよく示されています。例えば、和声の習得を目指す初歩の生徒に、響きがあまり強烈な和音は「作曲家」の仕事であって、まずもって和音の連結の美しさを目指す「和声家」は、まず単純なものを極めなければならないとチャイコフスキーが諭す場面が、『手引』の中には度々見られます。
さらに、チャイコフスキーにとって、本書で述べられている「理論」は絶対的なものではありません。それはあくまで経験則から得られたものであって、もし自身の本能によってその経験則を超えられる生徒は、必ずしもそれに従わなくていいのです(逆に、そうではない者はしっかり理論を身に着けるべきだとも助言します)。
このような箴言は、こんにち音楽を学ぶ人々にとっても大いに役に立つもののはずです。
このような助言以上に、チャイコフスキーがこの本でなした仕事は重大かつ興味深いものです。
やや専門的な話にはなってしまうのですが、チャイコフスキーがトニックの和音のグループ(I, III, VIの和音)について書いた記述は、現代の和声教科書にも言及されるほど、変わらぬアクチュアリティを持っています。
(例えばДубовский, И. ら Учебник Гармонии. М., 2020., С. 103。これは1965年の本の再版ですが、この本が音楽院などで使われている以上、この文の意味はそれほど変わらないはずです。)
転調についての考え方も特徴的で、後世のリムスキー=コルサコフによる記述とは相違があります。リムスキー=コルサコフがかなり細部にわたって転調のやりかたを検討する一方で、チャイコフスキーは音楽的な感覚、耳に自然に聞こえる転調に重きを置いていました。
ここまで色々と述べてきましたが、チャイコフスキーは『手引』の序文で、首尾一貫した簡潔な記述が必要だと述べています。事実、この本ではそれが実践されています。和声という科目は専門的なものではありますが、おそらくチャイコフスキーの語り口は、和声ってなんだろう?と興味のある方々にも楽しんでいただけるようなものになっているはずです。
ぜひ音楽に興味のある皆さんに『手引』を手にとっていただき、楽しんでいただけると幸いです。
音楽学者の学習とロシア音楽研究の将来のためにご支援いただけると嬉しいです。演奏会や楽譜購入に使わせていただき、記事の内容も充実します。