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雪明かりが照らしたもの

「思い出は美しい」とはよく言ったもので、時間の流れは恐ろしい程に過去を風化させてしまう。

思い出なんて全てが美しいわけでは決して無いけれど。

私が起こした出来事は風化すべきものかは分からないけれど、一生、この日を忘れることは無いだろう。生死を彷徨った2年前の1月16日の夜の雪明かりは、私が殺したかつての「私」を照らしていた。

この時期はどうも毎年体調を崩しがちなようだ。飛び降りを実行したり自傷が増えたのは1月なので、魔の月だなと勝手に警戒している。1ヶ月程前は希死念慮が酷い日が多かったが、今年は何とか乗り越えたい。

私は今こうして生きているが、一度死んだようなものだと思っている。自殺未遂がきっかけで、親が青ざめた顔でやっと精神科の門を叩くことになったらしい。何の形も名前も無い恐怖に押し潰される不安感は、専門医の下した診断名でショックを受けたものの、少しは和らいだ。深い霧が少しだけ晴れた。だが、これからが生き地獄のような闘病の始まりでもあったのだった。

主治医からトラウマの専門的な治療を勧められているが、過去の傷を引っ張りだして掻き毟る、辛いものになるらしい。それが怖くて1歩踏み出せずにいる。それどころか、家族に暴言と共にトラウマを抉られているからもう辟易している。フラッシュバックは慣れることは無いし、薬で誤魔化しながら生きるしかないと、減薬も半ば諦め気味だ。

死にたいと喚かなくたって、どうせ、必ずいつかはみな平等に死を迎える。だから死ぬのは明日にしよう、と毎日毎日自分に言い聞かせて何とか生きてる。いつかは必ず死ねるから、悔いの無いように毎日生きよう。これが闘病の中でやっと見つけた答え。

私にも枯れない意思や夢があったなら、病気や障害で苦しむことも無かったのかな。病室で寝たきり状態でも、閉鎖病棟の白い天井を眺める日々を送ったことも無駄な時間では無かったと信じていいのかな。頭の中は疑問符と後悔だらけで、今はもう何も分からない。

こうして自死への衝動と過去への懺悔を書き綴るのは、もうこれで終わりにしようと思う。飛び降りてもODしても未遂に終わってこうして生き延びた。もう少し頑張ってみようと思っているものの、強固な希死念慮やトラウマはそう簡単には消えないようだ。

雪の夜は静かで空気が澄んでいて好きだった。

星々の煌めきと月の光は、どうにもならない現実を少しだけ忘れさせてくれる。

2年前の今日、雪明かりが照らしていたものは自責の果ての死体ではなく、生きている私自身だから。

先日、静かな雪の夜に消えたくなって、窓を開けた。眼下の闇に吸い込まれるのが何故か怖くなった。やっぱり、まだ、もう少し、生きていようと思えた。

「病気、障害、酷い思い出、自己嫌悪や希死念慮に苛まれた分、これからの人生という旅路がどうか、無事でありますように」と願っても許されるだろうか。私に幸せになる権利はあるのだろうか。誰もが抱えるありきたりな不安だが、これからの人生が穏やかである事を祈っている。



手の震えが、視界が、滲んできたので、もうこんな駄文を連ねるのも終わりにする。何より、過去に縋りたくないから。

そして人生最後の日は、悔いも無く、生まれてきて本当に良かったと思いながら眠りたい。



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