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追憶と叫び

昨年6月。酷い悲しみに暮れる日々を送っていた。いっそ絵筆を折ろうか、と、抗うつ薬や精神薬の副作用でぼうとする頭で考えながら瞳を閉じた。創作しない自分は何の価値もないから。絵や文章を辞める、すなわちそれは死ぬことだから。

消えたい死にたい気持ちがいつのまにか日常化し、いつ自殺行為してもおかしくない精神状態だった。常に死と隣り合わせ。生きるってこんなにも辛いものなのだろうか。消えてしまえたら楽なのか。

抗うつ薬の副作用は凄まじい。怠く動かない体、手に力が入らずペンを持つ手が震える。そもそも絵を描いたり読書したりする気力自体が皆無だった。副作用に苦しんだ挙句、薬の効果は得られず、学校に元気に復帰するという期待は打ち砕かれた。

かつて、芸術や学問に救われる人生を志していた。そのために一心不乱に絵などの作品制作や読書に打ち込んだ。心身に鞭を打ち無理をしていることにも気が付かない程に。そして自殺未遂ののち、精神の病気と障害が発覚した。全てが終わった、と白い精神病棟の天井と点滴を眺める日々を送った。

自分のしたいことって結局なんだったんだろうか。

いったい何の為に創作してきたのだろうか。

芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。
弱者の友なんだ。
芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。
こんな単純なこと、僕は忘れていた。
僕だけじゃない。
みんなが、忘れているんだ。太宰治/『畜犬談』

創作する意味を模索し続けた自分に、この言葉を贈りたい。劣等感に苦しみながら、辛いことを忘れる為にものを作り、絵を描き文章を書いてきた自分にとっての救いのような言葉だと思った。

理想と現実のギャップだとか周囲の人との齟齬だとか、潰えた夢だとか。すべてを抱きしめてくれるような、自分を肯定してくれるような言葉。

私が意地でも絵を描くことや文章を書くこと、何か作ることを辞めなかったのは、心の叫びみたいなものだった。自分を自分とたらしめる何かが欲しかったのだろう。

苦しんだのも全部無駄じゃなかったよ、あなたの創ってきたものだってゴミじゃなかったよ。

弱いままでも死にたいままでも生きていていいんだって最近やっと思えた。その中に私なりの希望や光を見い出せたらきっと、私は誰よりも幸せだ。

時々、「〇〇(私の名前)ちゃんみたいになりたいな。」と言ってくれる人もいた。こわばったような張り付いた笑みで「ありがとう」と返していたけれど、病気や障害で何もかも諦めることを悟った私の姿を見たらそんな事は思わないだろう。所詮あの子らは私のうわべしか見ていないし、そもそも見られたくもない。

傍から見たらくだらない理由で死にたがる私たちだけれども。この世界の、澄みわたる青空や新緑、素敵な絵や文章、楽しいかわいいものたちを、死んだら二度と見られなくなるのは惜しいな、と、自死への衝動を抑えている。

暗い闘病の最中でも自分自身に希望を見いだして、どこかで生きていたがる自分が今はちゃんといる。

眠れぬ夜の果てで見た朝焼けが美しかったことのように。

光があるから闇がある。逆も然り。始まるから終わる。生まれるから死ぬ。この世への絶望を経験したからこそ、この世にも希望はどこかにあると信じたい。

この世は、そして私自身は、案外単純に出来ているのではないかと最近思う。

高い空の青さに、銀河の輝きに、頬を撫でる風の匂いに、言葉の海に思いを馳せながら、今日も絵筆や万年筆を手に取る。

あたたかな陽の射す七畳一間、木製の使い込まれた机の上で、白紙のページを撫でる。優しい光のなかで欠伸をする。

さぁ今日は何をえがこうか。



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