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三重県の三重ってどういう意味?【歩いて目指せ日本橋4日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。
【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。

②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。

③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。

④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。


【前回の記事】

伊勢国・関宿

朝の関宿です。前回がひどい雨で地獄を見たので、カラッと晴れているのが本当にありがたいです。今回は関からスタートし、亀山→庄野→石薬師→四日市の4つの宿場町をめぐります。後ろの案内標識に「四日市 29キロ」という文字が書いてありますが、心の安寧のために見なかったことにします。まずは亀山宿まで5.8キロ歩きます。

畷って絶対読めない

関宿を出て程なくして、大岡寺畷という長い一本道が現れました。
」、読めますか?「なわて」と読むそうです。右半分はカタカナのヌ4つかなと思いきや、右の2つは漢字の「又」なのが更にややこしいです。
平たく言うとあぜ道で、縄のように真っ直ぐ長い道を指します。この大岡寺畷は2キロと東海道の中でも随一の長さだそうで、ガイドブックの中でも「ぜひ歩きたい魅力的なコース」と謳われていました。

確かに先が綺麗に見渡せるほどの真っ直ぐさは、歩いていて清々しいです。

伊勢国・亀山宿

見にくいですが手前の石には「亀山宿」の文字があります。

今日の1つ目のゴール・亀山宿につきました。
亀山宿は幕府直轄の宿場町で、大名達は泊まることを避けがちだったので、規模は小さめです。そりゃ、出張中に会社のお偉いさんが経営しているホテルに泊まるの嫌ですよね。
今いるところは「お城見公園」と言い、奥には、この地にかつてあった亀山城の多聞櫓が見えます。

亀山城の多聞櫓(中央奥)

亀山城は粉蝶城と讃えられた美しいお城だったようですが、今はこの多聞櫓だけ残っています。本当は近くまで行きたいのですが、次の庄野宿まで7.8キロもあるので今回は諦めます。(寄り道の積み重ねが仇となる事を4日目にして学びました。)四日市まではまだまだ遠いので先を急ぎます。


道中、「女人堤防碑」なる石碑が立っていました。

女人堤防の碑

昔、水害に耐えかねて堤防を作りたいと藩主に訴えたところ、「殺すぞ」と脅された庶民が、「殺されても問題ない女達に作らせよう」と村の女性たちを動員し、6年がかりで堤防を作らせ、女性たちを打首寸前まで追い込んだという地獄のような話です。女性達は処刑場に送られましたが、間一髪の所で許されて、一命を取り留めたそうです。

伊勢国・庄野宿

53ある東海道の宿場町の中で最も遅い、1624年に作られた宿場町だそうです。
歌川広重の名画「庄野の白雨」にも描かれた町なのですが、あいにくこの日は快晴なので浮世絵と同じ雰囲気は中々感じづらかったです・・・。

庄野の白雨 寒そう・・・
本陣(VIP用ホテル)跡は休憩所になっていました。かつてのVIP専用宿も、時代が変われば地元の人たちの憩いの場になるんですね・・・。

次は石薬師宿を目指します。庄野〜石薬師はガイドブックいわく「何も見所がない」とのことですが、距離は2.7キロと短いので、何とかなりそうです。

伊勢国・石薬師宿

石薬師に着きました。ガイドブックの言うとおり何も見所がなくて、宿場町の入り口にあった一里塚が輝いて見えました。

影がキモい!!!

嬉しくて思わず写真を撮ったら、一里塚のそばにあった看板に「くたびれたやつが見つける一里塚」という江戸時代の東海道あるある川柳を見つけて、なんだか恥ずかしくなりました。普遍的なあるあるってあるものですね。

石薬師は、亀山と四日市間があまりにも長い(この後歩いて身に沁みて分かりました)為に設けられた宿場町です。名前は地元の名刹・石薬師寺から取られています。
鎌倉殿の13人にどハマりしていた身として、石薬師で見逃せなかったのが「蒲桜」です。

蒲桜🌸

一説には樹齢800年のこの桜は、元々は源頼朝の弟・源範頼が植えた桜の枝だったと言われています。源平合戦の折、範頼が戦勝を祈願して「俺が勝ったら花を咲かせろ」と、馬の鞭用の桜の枝を土に刺したところ、見事に桜の木が育ち、花を咲かせたんだとか・・・。

そばには、範頼を祀る「蒲冠者範頼之社(御曹司社)」がありました。

蒲冠者範頼之社(御曹司社)

人間不信の兄・頼朝と破天荒な弟・義経に挟まれ、影は薄いわ中間管理職的な役割を強いられるわと、何かと不憫な範頼さんですが、文武両道だったこともあって、ここ石薬師ではこうして神様として祀られています。それにしても、源平合戦の武将から幕末の志士まで、中世、近世の偉人達が度々出てくる東海道の歴史の深さたるや・・・・。

そろそろ夕方の空になってきました。本日のゴール・四日市宿まで、あと10.8キロというおぞましい数字がガイドブック上にあった気がしますが、多分見間違えです。
しばらくは1号線沿い(東海道は1号線と合流したり外れたりを繰り返します)を歩いていましたが、途中で東海道は右わきの坂道に逸れました。

黄色の太い道が1号線、青色が東海道です
坂を上ると、彼方に四日市コンビナートが見えました。これほどコンビナートが恋しくなることが、この先の人生で何度あるのでしょうか。

さて、1号線から逸れた旧東海道ですが、この先には「杖衝坂(つえつきざか)」が待っていました。名前は、日本武尊が剣を杖にして登ったという伝説に由来しています。その険しさゆえか、国道はこの坂を避けたルートで整備されています。

杖衝坂

この坂を上っていた時の日本武尊は、坂を上りながら「足が三重に折れ曲がるくらいしんどい」と弱音を吐くくらい満身創痍だったようで、このフットボールアワーの後藤さんのような例えにちなんで、この地域は「三重」と呼ばれるようになったとか(諸説あり)。さらに明治時代に四日市が一時県庁所在地になったことで、「三重」はこの地の県名になったそうです。かすかに残る江戸時代の名残に想いを馳せるのが東海道の旅の醍醐味ですが、歩く中ではこうした現代社会の所以が垣間見えることも多く、面白いです。

芭蕉の句碑

坂を下ると、松尾芭蕉の句碑がありました。芭蕉はこの坂で落馬したらしく、「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな(徒歩でいけばよかったのに、馬で杖衝坂を越えようとしたら落馬した)」と一句詠んでます。俳句が全然分からないので、「シンプルに見えるけど風流な一句なんだろうな」と思って調べてみたら、「季語もない駄作」とdisられていました。今だとTwitterに書いて終わるような内容でも、芭蕉レベルともなれば句碑がたつから凄いですね。

四日市という地名はちらほら見え始めましたが、肝心の宿場町は先です。

ここからしばらくの東海道は、上のストリートビューのような(暗くて写真撮れませんでした・・・)住宅街になっているのですが、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で道の狭さに対して車の量がかなり多く、足をひかれやしないかとヒヤヒヤしながら歩きました。さらに、各々の家からする夕飯のにおいが士気を削ぎにかかってきます。

ただ、この日の夕飯にはとっておきの四日市名物を予定しているので、ここでくじけるわけにはいきません。四日市の中心部を目指して旅を続けます。
日もすっかり沈みましたが、街中に近づくにつれてビルと街灯の明かりも増えてきたので、視界は比較的良好になってきました。もうすぐ町の中心部、近鉄四日市駅前の大通りです。

あの明るい道はなんですか

何これ??商店街????
急に街中に入ったかと思いきや、大通りの先に続く道が明るい商店街になっていて、一瞬道を間違えたかとヒヤッとしました。ですが、地図上ではどうやらこのアーケードが東海道だそうです。

タイルで舗装された地面が余計に東海道みをなくしています

道脇に立つ「ここは四日市 東海道」の旗がかろうじて宿場町のアイデンティティを主張しています。
旗には、四日市のゆるキャラ・こにゅうどうくんがあしらわれていてかわいいです。こにゅうどうくんは、地元のお祭りに登場する山車「大入道」を模したキャラクターらしいのですが、元ネタの大入道はどんな感じなのかと思って画像検索してみたら、中々怖くて泣きました

四日市名物で優勝していくわよ

無事に四日市にたどり着いたので、四日市名物で優勝していきたいと思います。

最高すぎる


✨✨トンテキです✨✨
ここに至るまでの道沿いにも何件かトンテキのお店はあったのですが、ちゃんとゴールしてから食べたいと思い、泣く泣く見送りました。最後の方はトンテキを食べることだけをモチベーションに歩いていたと言っても過言ではないので、ようやくお目に書かれて嬉しい限りです。
トンテキはニンニクとソースでソテーした厚切り豚肉と千切りキャベツの盛り合わせを指すそうで、ここ四日市のソウルフードとしてあまりにも有名です。
トンテキと一緒に白米をかき込み、仕上げにビールでキリッと締めるの、大袈裟でも何でもなく「幸福」の極みでした。私が1日かけて燃やしたカロリーをチャラにする位のボリュームですが、この至極の喜びの前には、カロリーに対する罪悪感も何もありませんでした。この世に生まれてきてくれてありがとうトンテキ。

この日は四日市で宿泊しました。朝から約30キロ歩いて大分ヘロヘロだったので、ホテルに着いてからはマッハでお風呂を済ませて、22時前には就寝しました。これ位のスピード感で平日の夜も過ごせたらいいのに・・・。

次は三重県最後の宿場町・桑名まで歩き、伊勢湾を超えて名古屋へと向かいます!
また次の記事も読んでくださると嬉しいです。

寧々

【おまけ】歌川広重と同じ構図で宿場町の写真を撮るチャレンジ

亀山宿 雪晴
京都側の宿場町の入り口らへんを描いたらしいので、同じ場所で1枚。
庄野宿 白雨
流石に絵から場所を特定するのは無理だったのでここで許して・・・
石薬師宿 石薬師寺 
浮世絵にある鈴鹿の山は見えませんでした
四日市 三重川
分かりやすい名物がない宿場町の浮世絵は大概風や雨や雪に見舞われる旅人の絵が多いイメージ
まだまだ先は長いです



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