(概念が)古の国に暮らすわたしの呟き
前の記事で「障害者ができる健常者への合理的配慮」について書いたけれど、その内容の色々の背景には、日本人の「生産性への執着」が頓挫している。
先日、SNSでこんな投稿を見た。
とある障害当事者の投稿だった。
「わたしは生産性がないと思ってて、情けないなあと思ったけど、医療従事者を動かして給料の大元を支払ってるんだから生産性もなくはないと思った」
この国はどこまで国民から搾取するのかとこの投稿を読んで思った。
障害も健常も関係なく「生産性」に追われているのだ。
仕事も家庭も友人関係ですらも、損得でしか考えられない人がいるくらい。
生産性なんかなくても、人間は十分幸せを唱えられるべきであると思う。
でも今のこの国では無理。
だって生きてるだけでお金とられるし。
わたしみたいな「年金もらえない系障害当事者」がいたって、なんの不思議もない。
そもそも思うのは、貧しいのに見栄張って背伸びして、僕たちちゃんと発展してます、みたいなアピールしてる国だから、生産性だのなんだのを国民に押し付けて搾取することになるんじゃないのかな。
貧しいなら貧しいなりに考えるべきことや取るべき行動がある。
2人で一切れのパンや一個のおにぎりしかないなら分け合えばいい、なんてこと、3歳の頃のわたしも知っていた。
自分たちの国はこれだけ素晴らしい!と言える、誇りに思ってるのは上層部だけで、別に中下界の人たちは取られるだけ取られて、誇りとかについてはなんも思ってないと思う。
会社を立ち上げる、店を出す、講演会をする、交流会をする、勉強をする。
全部が「生産性」のためだ。
搾取される私たちが、搾取される分を補うために生産をさせられている状況。
国民の頂点に立ったことないからわかんないけど、そんなに搾取しないと生き残れない国なら初めから慎ましく暮らせばいいのに。
毎晩熱を出して、発作起こして、働きたくても働けないわたしには、これを乗り越えるための国の金なんて一銭も入ってこないのに、社会のために生活のいろんなこと(具体的に書けないほどいろんなこと)を頑張らなきゃいけない。
全て会社や家庭や、大きく言えばこの国の生産性のために。
ある本に、宮沢賢治の言葉が載っていた。
「全体が幸福にならないうちは、個人の幸福などあり得ない」
これはじめは逆じゃない?と思ったけど、あながち間違いじゃないかもしれない。
この国で弱い立場のひとにまで生産性を求める社会の風潮やシステムが続く限り、個人の幸福度は上がらないだろうなと思います。
この国が、滅びるまで。
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