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転職歴は数知れず‥

私の転職歴は人よりも多い。
学生時代のアルバイトなどを入れるとどのぐらいの数になるのか、自分でも把握できないほど。
わかりやすく言えば、アルバイトを含めなければ履歴書にギリギリ埋まるかなぐらいの。
私の場合は、スキルアップの転職ではなく、自己ミスマッチ、転職というより‥自己離脱という方がいいかもしれない。
「石の上にも3年」
いろんな人に言われたっけな‥。
3年どころかすぐにギブアップしてしまったアルバイトもある。
本当にご迷惑をかけましたと思うことばかりである。
そんなとんでもなく、問題児な私の転職遍歴を職業別に書いていこうかなと
思います。

工場経験として3つ。
ミシン
電子部品
野菜を投げる

初めての仕事(被服工場)

高校3年生の春休みは、バイトをしてお金を少しでも貯めようと思っていた。母子家庭だったこともあり、母は昼夜問わずかけ持ちで働いていたので少しでも足しになればと思った。
社会の洗礼を受けたのは、この時だと思う。

市営アパートから徒歩圏内に被服工場があったので、そこでバイトで春休み限定ということで働かせてもらえることになった。
工場見学をした際に目にしたのは、ミシンの流れ作業。
襟のふちを縫うだけ担当→ボタンホール担当→袖担当‥のような記憶は曖昧だが担当箇所を縫うミシンラインがあった。
その時に、気づけばよかったのだが私とミシンの相性はめっぽう悪い。
おもえば、家庭科の授業でフード付きのパーカーを作成した時には授業時間では作成できず、放課後居残り決定となった。その時間は40時間を超えて、家庭科の先生をとことん呆れさせ、パーカーをただの使えない布にした記憶が蘇る。

だが、あたりを見回すと検品作業をしている人やダンボールに詰める人
他の雑用をしている人も多い。
きっと高校生バイトがラインに入ることなどないと思っていた。

翌日、朝から皆に軽く紹介された。
その後、現場を仕切るリーダーに連れていかれた先は‥
やはりミシンラインだった。

高校生だった私は何も言えなかった。言えずにそのまま、ボタンホール担当を任されることになった。

はじめてミシンを触った時からミシンから嫌われている私。
とにかく誰もが簡単に操作可能とするそれを操れない。
まずはボタンホールを縫い付ける箇所を間違え、なぜか定期的にボビンを盛大に絡ませる。そして、ミシンの糸通しの順番がわからない。
パニックになるとペダルを踏む力がわからずに全力のベタ踏みをやってしまう。
私は焦れば焦るほどミスをしてしまい、そしてまた焦るという負のループ。そして、私がミシンを通せば布はほつれてこんがらがっていった。

魔法のミシン‥。
こんなに時代は楽になったというのに、ミシンに嫌われし女がここにいる。
ボタンホールを待つ服の山は高い高い山となり‥隣の人が見えなくなるほどの事態へ。
私の仕上がりを待つ次の担当者は呆れた顔でキラキラさせた爪を眺めて休憩をしていた。
そんな山を作る日が2日続き、さすがにリーダーから3日目に検品係へ移動命令が下された。それが苦い初めてのバイトの思い出。

電子部品の工場
この募集は新聞広告で見つけた。当時、パニック障害後だったので月給良さとそこはあまり人と話さなくていいという環境であり、ライン工程が無いことが大きかった。そして派遣社員として電子部品(当時の携帯電話の部品の一部)を作ることになった。
工場作業員というのは、ドラマでいえば作業着を着ている。
特に目立つような色でもなく、無難な色だったことを覚えている。
地味で目立ちたくない私にはピッタリだと思った。
初日に渡された作業着を見るまでは‥。

勤務時間は正社員8時~16時で終わるところに私たちが入り、夜間も稼働させるというもの。正確には覚えていないが16時〜0時(休憩1時間)だった。
社員さんは男女全員が地味めなブルーで統一されており、派遣は社員との区別をつけるために男性は地味なグリーン、女性はなぜか80年代を彷彿とさせる鮮やかなピンクだった‥。定時のブルーが去り、夜勤の地味グリーンと鮮やかピンクが入れ替わる。そんな場所だった。
作業自体は、一人で黙々とする作業であったので落ち着いていた。
製品を作ることに関しては厳しく、日報を書いて提出しなければならないため、膨大なロットを夜勤は任されていた。立ち仕事であり、体力的にはきつい仕事でもあった。人間模様はさまざまで年代もさまざまだった。

地味グリーンのおじさんや鮮やかピンクのおばさん達には、想像もできないほどの大変な毎日を送っていたことを夜勤休憩にぽろっと聞いたこともあった。交通事故で相手に大怪我させてしまって大きな借金があるおじさん。
シングルマザーでたくさん仕事をかけ持ちして、頑張って子どもを育てているおばちゃん。
とにかく、薄暗い工場で日報を書いていてもモチベーションが上がらなかったし、夜勤でひたすら働いたが生活リズムを壊し、毎日起きるあがる力も無くなり、ナメクジのように家を這いずりまわるぐらいきつくなったので辞めてしまった。

野菜をぶん投げる日々

派遣を利用したのが、これで最後だと思う。
この時、結婚して旦那が一時的に無職だった。
それを支えなければと思って急いで探した仕事がこれだった。
いわゆる野菜の選別。
作業は、葉物野菜の選別ライン(ラインというほど長くない、たった3人しかいない)そこにトラック山積みの葉物がラインに流されて、良い葉物は奥の箱に投げる。一見、簡単そうに思えるこの仕事。
いや、簡単ではなかった。
まず、ラインがあることを知らなかった。
私がラインは向いていないのはミシンでわかっている。

そして、選別がわからない。ベテランが良いとする葉物と破棄にする葉物の違いが全くわからない。何が違うんだ‥。
作業の流れは、3人ならんで「中堅」「私」「ベテラン」という並びで短いベルトコンベアーは流れていく。
まず「中堅」が大きく良さげな葉物を投げ入れる。そして私はたくさんの葉物から良いと思うものだけ時間をかけて選び一生懸命箱へ投げる。
そうすると時間をかけ過ぎたせいか、膨大な量が「ベテラン」へ流れる。
そこでベテランから「ちょっと!きちんと選別しなさいよ!良いものがたくさん流れているわよ!量が多すぎる」と声を荒げる。

ラインなので目の前を流れていく時間が早く、どれが良い物か悪い物か、腐っているようなもの、痛んでいる以外は初心者の私には、ほぼわからない。真剣に見ていたら膨大な量をベテランに流すことになる。

ここで学んだのは、見ているようで見ていない演技力だった。
私は時間に追われるとパニックになるので、きちんと見ていないと良いと感じることができなかった。
そのことで選別が遅かったのもあり、叱責さえると萎縮して余計にパニックになることもあったため、この方法しか見出せなかった。

「中堅」からも「ベテラン」からも見て学べという状況に、見てもただ同じ葉物にしか見えず、明らかな不備がない限り、それは全部良いものとして箱へ投げた。
「いい加減なことしないで!」

「ちゃんと見てないでしょ!」

「これは使えないから投げちゃダメだから」と言われたが‥全く分からなかった。
そこで中堅とベテランの選別方法を見てもわからなかった私は、演技として乗り越えようと思った。

「中堅」のトラックから下ろされた大量の葉物をさも選別しているかのように捌く演技(中堅は選別している)、「ベテラン」の最後の砦のような安心感と一束も無駄にせずに精査してます感(ベテランも選別している)、そして「初心者(真ん中)」も中堅の選別を的確に理解し、ベテランに負荷がかからない量で選別していく様を(これも私以外の真ん中ポジションの人はきちんと選別している)とことん真似した。

最初は叱られっぱなしだった私も数週間で真似がうまくなったのか、あまり怒られなくなった。それは選別がうまくなったかどうかは、定かではない。
今もスーパーでその野菜と出会うと思い出す出来事の一つ。

次は接客業・販売編を書いてみたいなと思ってます。
社会不安障害にとって大きな壁となるコミュニケーションや売り込みなどのストレスと胃腸炎との戦いでした。現在の仕事である事務編などへっぽこなエピソードも書けたらと思ってます。

たくさんの失敗談を書いて、いろんな人にどんなに失敗しても大丈夫!ってことを伝えたくて。
私は「私ができることって何?」「得意なことって何?」って考えるようになってまわり道ばかりしてきた人生で私ってどうしてこんなに出来ない人なんだろうと自己肯定感がゼロに近いレベル。
社交不安では、どうしても難しいことはスローステップ、スモールステップで成長できるように努力していきたいと考えてます。薬を飲んでもいいと思うし、行動療法を試しても良いって思います。
足が悪かったら、杖をつくように。頭が痛かったら頭痛薬を飲むように。
そうやってうまくコントロールして、自分のできないをできるに変えて増やしていくこといけたらなと思ってます。

私の目標は、減薬していって断薬した時に電話対応ができること(薬が悪いわけではなくて、副作用の眠気がとても辛いので)そして、さらっと周りの人に「社会不安障害なんですよ」って「鼻炎なんですよ」ぐらい軽くいえる世の中にならないかなと思っていたりします。












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