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私の出入国記録


はじめに


ある日「ネットサーフィン」(死語?)をしていてふと見つけた次の記事。
自分の出入国記録を1973年4月1日以降の分に関して、全て確認できるというのです。

これは面白そうだ!と思い、自分も申請に行ってきました。
海外旅行好きの人ならきっとこの心理は分かってもらえると思います。

手続きの詳細についての説明は以下のページに。
申請の正式名称は『日本人出帰国記録マスタファイルの開示請求』となるのでしょうか。そして、出来上がってくる書類の名称については『日本人出帰国記録調査書』で良いのだろうと思います(ぱっと見、分かりづらいですが)。

実のところ、はじめに紹介した記事の情報はすでに少々古くなっていまして、今は四ツ谷駅徒歩すぐの「四谷タワー(コモレ四谷)」での受付となっています。
郵送でも申請できますが、私は申請・受取りとも直に出向く形にしました。
調査にあたっては現行のパスポート番号ぐらいのデータがあれば充分なのかもしれませんが……。知人の入れ知恵で念のため過去の住所、本籍地、パスポート発行の履歴などについて覚えている範囲でメモ書き。それを参考資料として添えて申請へ。

そんな感じで足を運んだコモレ四谷は立派なビルでした。

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書類の仕上がりまでは2週間ほどだったでしょうか。ウワサどおりキッチリとした書類が出来上がっていました。

凡例(?)



さて。
こうしてせっかく作った書類。常日頃「俺は海外のことについて、ちょっとは見聞きしてるんだぜ」てなことを人に吹聴している手前もありますので。
以下に全7ページ分を掲げることにします。

(身バレ防止のため最低限の加工はしました。もっとも「然るべきスジ」の人が本気で調べれば、これでもバレバレだったりするのかもしれませんが……。)

──ただ、先にちょっとした注意書きを。

開示書類は渡航時期によって書式がバラバラです。そうしたことについては、そのページごとに説明もつけますが、以下のことは予めご承知おき願います。

・縦向きと横向きのページが混在しています。が、noteの解像度設定の関係から、全ページを縦長に配置せざるをえませんでした。見づらいと思いますが、ご容赦ください。

・データが昇順に記載されているページと降順に記載されているページが混在しています。

・「降機地」などのデータがごっそり抜けている時期がありますが、これは「そういうもの」なのだそうです。詳細は個別のページにて。

・データがある場合でも、それはあくまで「日本の出入国」に関わるデータなので、実際の旅行先とはズレが生じる場合があります。
例)○○国で飛行機を乗り替えて✕✕国に向かった、というような場合、「降機地」は○○国の空港が載ってくる、等。

……といったようなところで。

後は、特筆すべきと思う(あるいは、「特筆したい」)渡航についても適宜コメントをつけています。

私の出入国記録


ページ1

(見てのとおりで特にコメントなし)

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ページ2

私にとって一番感慨深いページ。データは上から下へ素直に並んでいます。

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記録1〜4。これは親の海外赴任に同行し、1977年〜1982年の間、某国で暮らした際のものです(なお、1981年春に一時帰国している)。これが私にとって初の海外渡航でした。

その国を起点に周辺の国に行ったりもしたけれど、残念ながらそれはこの書類からは見えてきません。

1987年にヨーロッパ旅行(成田発のマレーシア航空。クアラルンプール経由のいわゆる南回り便。記録5&6)。
この渡航については機会があったら別途書きたいこともあるのですが。結果的には「(壁崩壊前の)東西ベルリンを訪問し、その後、ヨーロッパをぐるっと一周」というような旅行になりました。私にとっての初欧州でもあり、極めて印象の強い旅行です。
当時の私は名古屋に住んでいましたが、東京都内までは、今は無き「大垣夜行」を使って行きました(最初から節約志向です!)。6月末だと「青春18きっぷ」は使えませんから、普通の乗車券で乗ったのです。当時の私にとっては、一人で夜行列車に乗って東京に行くということ自体が一つの冒険のようなものでした……(遠い目)。車内は割とガラガラでしたっけ。
そして上野からは京成電鉄の、これも通勤形の電車で「成田空港」駅(=現「東成田」駅)まで。
さらにこの「成田空港」駅からはターミナルビルまでバスが出ていて、行きは何も考えずにそれに乗ったのですが。これは、歩いてもすぐな距離に何百円もとる、超ボッタクリのバスでした。もちろん、その後は二度と使っていません(^_^;)。

1989年に米国旅行(記録7&8)。ちょうど1988年12月にビザ免除プログラム(VWP)が適用になってすぐのことでした。なお、私が米国に行ったのは今のところこの一度きりです。グレイハウンドバスで西海岸から東海岸まで横断。
この時は大韓航空を使って、帰りに(前年にオリンピックがあった)ソウルも少し見てきました。これも初韓国。
当時は韓国旅行にはビザが要ったのですが、トランジットの場合72時間までノービザ滞在できる、というような規定があって、それを活用したのだと記憶しています。

1990年に香港経由で中国旅行(記録9&10)。当時の中国は旅行をするのがなかなか大変な国で。中国到着早々、バス車内でカメラをスラれたり、旅行終盤には体調を大きく崩して病院に担ぎ込まれたりといろいろキツイ思い出の多い旅行。
とは言え、決して悪い思い出ばかりでもありません。
香港経由なのは、中国を自由旅行するためのビザを香港で入手するというのが当時の定番の手法だったからです。
思い返すとこのページの頃の旅行は、ビザ関連の話が旅程などと絡む度合いが高いですね。

《記事UP後の補足》
当時の時刻表を見たら、成田空港の連絡バスは6分190円となってました。実走行時間はずっと短かった印象ですが。ちなみにこの当時の都バスの均一区間は160円だった模様。なんにせよ「何百円も」は記憶違いでした(^_^;)。
今なら東成田〜第1ターミナルは無料のシャトルバスで移動できるはずだから、そのうち改めて乗ってみるのもありかな……。
ついでに調べましたが、当時の大垣夜行は22:59名古屋発、翌4:42東京着。
成田空港(=東成田)行きの電車の始発は京成上野5:03発。(追加料金不要の)特急の1本目は7:02発だったようです。


ページ3

このページからはパスポートごとに調査書がまとめられています。
そして上にも書きましたとおり、この先は画面を横向きに見ていただく形になります。とても見づらいと思いますが、ご容赦ください。

ページ3に関しては上から下に見る記載順で、その点は素直な並び方です。

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この辺りの旅行もいろいろな思い出がありますが。
項番3の「モスクワ往復」っぽい渡航は、実際にはモスクワ経由でトルコ(イスタンブール)in,ギリシア(アテネ)outとし、中東のシリアやエジプトなどを回った旅だったと思います。まだ平和だったころのシリアですね……。
そして、帰りにモスクワにも数日滞在しました。私にとっての初のロシア旅行。当時は(今で言う)「ソ連崩壊」から間もない頃で『旧ソ連』の雰囲気がまだ至るところ濃厚に残っていました(と、今にして思う)。

私は昔からロシア文化にはいろいろ興味がありました。また、「冷戦」中は「敵」設定だったソ連という国について、ぜひその実際のところを見てみたいものだとも、かねがね思っていました。
とは言え、旧共産圏はどこも渡航手続きが面倒、かつ、お値段的にもボッタクリな感じで、なかなか気軽に行けなかったのですが。
ヨーロッパなどに渡航する際、モスクワ経由のアエロフロートを使い、行きか帰りにモスクワに数日泊まる……と。そのような形で、ホテル,ビザなどの手配がコミになったパッケージ商品があり、それを使えば「比較的」楽かつ安価にロシア観光できることを知りまして(この「比較的」はあくまでカッコ付きですけれど)。この旅行ではそれを利用しました。

【後に私はロシア文化のお勉強にもっとズブズブとハマり込んでいくのですが、この時点ではそこまでのことは想定していませんでした。】

なお、このモスクワでストップオーバーする手はその後、割と何度も使うことになります。アエロフロートは概ね安く、行き先国も多いから、その点は確かに便利だったりもしました。
(この時の旅行にしても、in/outのイスタンブールとアテネ、両方に就航していて、なおかつ安い、という条件を満たすのはアエロフロートぐらいだったかも。)

あとマニアックなことを言うと、この当時は名古屋空港にもアエロフロートが飛んでおりました。このデータからも確認できると思います。

項番6のウィーン往復っぽい渡航は(まぁウィーンも少し歩きましたが)、実際にはウィーン経由のイスラエル旅行。
しかしこれも結構すごい時期で。
渡航直前の1995年11月4日にイスラエルのラビン首相が暗殺されたのです。
いや、これはひょっとしたら、旅行に行くのはちょっとマズイのかなと思ったのですが……。しかし結果的にはなんの問題もありませんでした。
というのも、同首相を殺したのは(本来的には身内であるはずの)過激派ユダヤ人青年だったので。そこから民族間の衝突に発展するというような話にはならなかったからです。むしろそうした対立が一時的に棚上げになった瞬間だったのかもしれません。


ページ4

このページから先はデータの並びが下から上の順になって一層見づらくなります(^_^;)。

そしてここからは10年間有効のパスポートになっているので、調査書あたりの項数も多くなっています。
(Wikipediaによると10年間有効のパスポートの発行開始は1995年11月1日。) 

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ページ4で特筆すべきは、やはり初っ端(項番18)の「平壌往復」でしょうか。
これは(旧)名古屋空港発着の北朝鮮ツアーに参加したのです。ちょうど高麗航空のチャーター便が飛ぶというので企画されたツアーだったはず。
念のため書いておきますが、当時は北朝鮮は「行きにくい」国ではあったけれど、渡航自粛要請とかは出ておらず、本気で行こうと思えば「問題なく行ける」国でもありました(日本人拉致の問題は、この当時はまだ「疑惑」の段階だった)。
今では信じられないようなことですが、この頃はJTBなんかも北朝鮮ツアーを販売していました(アフリカツアーなどの載った「レアな行き先」系のパンフに入っていたような記憶)。私自身が利用したのは別の会社が催行するツアーでしたが。
なんにせよ「この人物は北朝鮮渡航歴がある」と日本国から正式に証明が受けられるというのは、ちょっとレアな感じかもしれません。


ページ5

引き続き、下から上へと並んでいます。
そして2001年7月分以降、いきなり「降機地/乗機地」や「航空機便名」の部分がすっぽりブランクになっています。が、これは「そういう時期だった」のだそうです。
(「この時期は航空会社に届け出が義務付けられておらず、云々」といったような説明を受けました。)

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とは言え、日本側の空港名と出入国年月日だけではさすがに思い出す縁(よすが)が少なすぎて困りものです。それぞれ、どこへ行った旅行だろうか……。

記載がはっきりしているところでは、一番下、項番12の渡航。これは1999年8月11日の皆既日食に合わせた形でのルーマニア&ブルガリアの旅行。例によってモスクワにも立ち寄ったんじゃないかと(うろ覚え)。


ページ6

これも順番は下から上に。

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このページからは帰国時の「乗機地」と「航空機便名」だけは復活しています。
(「いついつ以降、帰国便に関しては航空会社に報告が義務づけられて、云々」といった説明だったと思います。)

個人的な状況について言うと、この時期は海外への渡航が激減しています(10年間で5回だけ)。それも日数の短い、近場の国へのツアーかそれに近いような旅行ばかり。まぁ個人的にあまり旅行どころではなかった時期です……。
ただ、この時期には初めて極東ロシアに渡航。この地域が観光地として意外と魅力的だということに気づくといった「発見」もありました。


ページ7

今のところの最終ページ。見方はやはり下から上に。

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2018年6月(項番6)の旅行が、以前に別記事でも触れた私の退職旅行です。
この時点で良くも悪くもいろいろ解放されて、その後は旅行熱が復活しているのがデータからも見て取れますね。

その2018年6月の旅行は北京経由の中国国際航空で東欧、ロシア、北欧方面を周遊する旅行をしたのですが。
この時、帰りに立ち寄った天津が気に入って……というのは、これも別の記事に書きました。

さて、その際に、天津は成田からLCC利用で格安で飛べるということに気づき。
そこからLCCというものに(遅ればせながら)興味を持って、いろいろ調べてみました。すると、各種のLCC便を組み合わせることで、結構レアな感じの場所にも意外なほど安く飛べたりすることを「発見」。こうなると、今まで行っていなかったところへの「斬新な」ルート案も思いついて、また新たな挑戦をしてみたくなったり。
……と、そういうことが次なるテーマとして浮かんできたのが項番5〜1の時期です。

項番3は一番直近の大き目の旅行。これはLCCを使ってモンゴル・ウランバートルまで飛び(韓国経由)、そこからはサハリンまでずっと陸路・海路でつなぎ、最後に船で北海道に渡るという想定の旅行でした。
経路的には韓国、モンゴル、極東ロシア、中国と、北朝鮮を除く東アジア地域をずっと見て回った形です。
この辺りは歴史的ないきさつもあって、どうも地域としての一体感に欠ける憾みがあるような気もしますが。それでもこうやって回ってみると、やはりそれなりの繋がりも感じられ。また「これだけ自分に近いエリアのことを、これまで自分は全然知らずに来たんだな」と、そういう「目からウロコ」感も大きく。そういう意味でとても良い旅行になりました。

ただ、サハリン(コルサコフ)〜北海道(稚内)間のフェリーがこの年は運休となってしまい、最後の部分(海路で日本に帰国)は想定どおりになりませんでした。それだけは残念で心残りです。

最後の項番1についても、実はもっと長期の旅行の予定だったのですが。出発前に罹った風邪が、予後もずっと体調不良の続くイヤなタイプのもので。結局、旅行を打ち切って急遽帰国することに決めたものです(そういう判断が割とお気楽にできるのもLCC利用の旅行の良い点かも)。

そして、その後は……。ご存知の事情で海外旅行どころではなくなってしまいました。
また気楽に海外旅行できる日々が戻ってきてほしいものですね。

付記


今回のトップ画像は毎度利用させていただいている、京成電鉄の(いわゆる「通勤形」の)成田空港行き特急電車です(写真はWikipediaより)。

よく海外に渡航するような人(とりわけ、安上がり志向の人)は空港までの行き方もいろいろ調べてみるのが良いと思います。
飛行機は狭苦しいLCCを利用し、現地では少しでも安い宿をと「Booking.com」で探したりするのに、空港までの足だけは豪華列車というのでは、あんまりバランスが取れているとは言えませんよね。

ちなみに最近の私(神奈川県民です)の空港へのアクセス方法を参考までに書いておきますと。

成田空港の場合、行きはメトロ東西線で西船橋まで出る→京成に乗り換えて空港まで(西船の駅は若干離れていますが大した距離ではありません)。
帰りは1000円の格安バスで東京駅八重洲口に出る→メトロ半蔵門線の「三越前」駅まで歩く(実は意外なほど近い)、といった感じです。

羽田空港の場合は、東急線を乗り継いで蒲田駅まで。そこから京急蒲田まで歩き(これも若干距離がありますが、大したことはありません)、あとは京急空港線で羽田空港へ。帰りはこの逆。
ちょっと前までは蒲田駅前から路線バスに乗るのが最安でしたが、2019年10月に京急空港線が値下げして、そちらの方が安くなりました。バスは時間が読みにくいので、その点からも空港線の値下げはありがたいですね。

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