【ミニコラム】「盆のような月」の修辞とリアル──あるいは言葉の持つ力について
物事の大げさな例え(文学的修辞)として「白髪三千丈」なんていう言葉がよく知られています。
さて、そのたぐいで「盆のような月」って言い回しもあるよね。(※)もちろん大げさだけど、そう表現したくなる気持ちも分かるよねと。
そんなことを思っていたある日。
何のきっかけだったか私の親と「月はどれくらい大きく見えるか」というような話になった際、「盆のような月と言うではないか。月は盆のような大きさに見えるに決まっている」と真顔で返されてびっくりしたことがあります。
念のため「実際に月を見て本当に盆のような大きさだと感じるのか」と改めて問うたところ「もちろん」とこともなげに……というより「なんでお前はそんな当たり前のことを疑問に思うのか」と訝しむような雰囲気すら漂わせ始めたので、いよいよ驚かずにはいられなかったのですが。
この件を思い返すに、なんと言いますか、昔の人って(それなりの教育を受けたはずの人であっても)どこかひどく素朴で、こういう修辞を本気で鵜呑みにしてしまうようなところがあったのだなぁ、という感慨が一方にあり。
もう一方で「文学的修辞」というものはことほど左様に人の心や感性、あるいは認識に影響を与えるものなのかという驚きと畏れをも覚えるのでした。
(※)……言うまでもなく文部省唱歌「月」の歌詞にある表現です。
さて、以上前フリをしてきましたが。
今回のテーマはごく即物的、非文学的に「月の大きさ」と「盆の大きさ」を比べ、以て文学的修辞が人の心に及ぼす影響の大きさを測定してみよう、というものです。
さて、「月と盆の大きさを比べる」と言っても、もちろん月と盆の実際の大きさを比べることにはなんの意味もありません。
こういう場合は 「見かけの大きさ」 すなわち視直径(角直径とも)で比べるのが妥当でしょう。
これは、自分の視野にとって、その物がどれくらいの広がりを持っているかを角度で示す測り方、という風に捉えれば良いでしょう。
ここで話の都合上、まず「角直径」、及び、角度の単位としての「分」についてのWikipediaリンクを貼っておきますので、必要に応じてご参照ください。
さて、ちょうど上の「角直径」の項目に書いてありますが、地球から見た月の角直径は「29' - 33'」。
ここではえいやで30分(角度)としておきましょう。
30分とは、言い換えればぴったり0.5度の角度です。
次に盆の大きさですが、ここでは茶道の盆手前で用いる直径27cmのものを想定することにします。それが1.5m先の食器置き場に、自分の目から見てちょうど垂直となる角度で立て掛けてあるものとしましょう。
この時、この盆の自分に対する視直径はどれだけか、なのですが、ちょうど次のサイトで計算できます。
単位は何でもいいわけですが、とりあえず「底辺 a」を150(cm)、「高さ b」を(盆の半径である)13.5(cm)として計算すると「角度 θ」は「5.1427645578842度」(=5°8′33.95″)と出てきます。
直径はこれを倍にすれば良いので10.2855291157684度となります。
まぁざっくり10度前後と考えておけば良いでしょう。
(計算の元になった盆の直径も自分との距離も「えいや」で決めたものですから。)
つまり上記のモデルケースで盆の視直径は10度。一方、月の視直径は0.5度なので、20倍の違いがあることになります。
白髪三千丈を真に受ける人はさすがにそうはいないでしょうが「盆のような月」はリアルにそう感じる人がいる。
とすると、文学的修辞には少なくとも人間の知覚を実際より20倍ほども錯覚させる力があるということになりますね。
というわけで、言葉の力ってすごいですねぇ、というのが今回の結論となります(笑)。
補論:今回もまた芥川龍之介「侏儒の言葉」から引用しますと。芥川先生は次のように述べていますね。
唯物史観
若し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。
本稿など先生から見れば無粋の極みであるかもしれません(苦笑)。
◆トップ画像は以下のサイトより
https://sozai-good.com/illust/person/family/33298
これもちょうど月と器が同じ大きさに描かれていますね。