月蝕(2021.1)

 市街地をはずれてどのくらい時間が経ったのか、はっきりとはわからない。県道をさししめす青いろの案内標識も、ストレート葺きの家屋や信号機も、道の端にあらわれなくなってひさしい。いま路肩には視界のはてまで、まっしろな雪をかぶった枯れ木がたちならんでいるばかりで、景色に変化がない。来た道をたどろうとふりかえっても、足跡はつけたそばから吹雪にかききえている。雲はながれをやすめて天上でよどんでいた。その分厚くかさなった層のすきまから、まるまると肥えた月だけが、いやにはっきりと顔をのぞかせている。水気をふくんでそそがれる牡丹雪にひかりが映じて、蛍のむれが飛びかっているようにみえた。
 どこに向かおうとしているのかも、判然としない。あたりは静まりかえっている。堆積した雪のなかに沈みこむくぐもった靴おとと吐息のほかには、なにもきこえない。からだが冷えきって、ゆびさきから順に、腕の感覚がなくなった。かたわらをゆく恋びとのいきれが、こちらまで届いたらいいとおもうのに、叶わない。風花にさえぎられているためか、恋びとはおぼろげで輪郭がはっきりとせず、どのような面立ちをしていたのかも、わすれかけていた。自分がなにものだったかさえ、記憶が錯綜して一貫性がない。ただひたすら歩みをとめずにいる。
 駆けおちをしたのだ。それだけは、鮮明におぼえている。おたがいに報われない恋だったので、一緒に出奔した。車を運転し、電車をのりつぎ、船旅もした。きまった土地を棲みかとさだめて、四季をすごしたこともあったが、ひとところにとどまっていると次第におちつかなくなり、気づいたときにはまた逃げていた。
 あるときは南の島にいて、漁師の家にあがりこんでいた。家賃をはらって部屋を間借りし、そこで明け暮れをくりかえす。住居のまわりに石垣をもうけて、かおりのつよい花々が庭に植わっていた。食用花などは湯がいて料理にも供される。獅子をかたどった素焼きの置物が、民家のあちこちに魔よけとしてすえられ、とがった牙をむきだしていた。漁師は母親とくらしていた。貝を背負わない巨大なヤドカリのなかまを、陽のかたむくころ捕らえにいったことがあった。かれのうしろにつきしたがって、息をおしころし茂みのおくへと進んでゆく。漁師の肌は小麦いろに焼けており、その皮膚のいろに近づけるほど、わたしと恋びとが島に滞在しつづけられるかは、はなはだ疑問だった。獲物をみつけるとかれは腰をかがめ、慎重に距離をつめた。ふりあげた足で背中をおさえると、めあての甲殻類はよく切れそうなはさみをかかげ、腐葉土に爪をたててあらがう。こつがあるのだと漁師はいって、余裕の表情で歩脚をつかみ、そのままもちあげた。小ぶりでもないし卵もかかえていないので、調理して差しつかえないとよろこんでいた。帰途につき沸騰した鍋にしずめると、黒地にあおいまだら模様をおびていた殻が一瞬で赤らんだ。
 夜が闌け、いっそう気温がさがったのか、おちてくる雪片のようすが変わったようにかんじられた。ひとひらひとひらが、水分を減らしてより凝縮し、細雪になって、なんの音もなく降ってくる。積もったばかりの新雪も、吹きあげられてふたたび中空を舞う。下からも上からも天花にとりまかれ、意識がぼんやりしていた。胴の感覚もあらかたうばわれ、深雪をふみしめる足の感触が、じかに頭につたわってくる。さきほどから恋びとは一言も発しない。くちびるがかじかんで自由に動かせないのかもしれない。心臓まで凍っていはしまいかと不安になる。耳や鼻がいたみを通り越して、ないもののように装いだしたから、胴体のつぎは顔が失せるのだろうとわたしは考えた。眼球のおもてにも氷の膜がはって、気持がわるい。周辺を月光がみたしていた。まばらになりはじめた梢をすかして、明かりがただよってくる。どれだけ歩いても月はついてくるので、恋びととわたしと月と、三人での道ゆきがおわらない。
 都心のアパートに住んでいた折もあった。靴脱ぎ場のすぐ左手にそなえつけの台所があり、前方に手洗いと浴室、しきり戸をはさんで、右手にリビング兼寝室があった。付近にある音楽大学の学生むけに建てられた長屋だったので、防音設備がほどこされていても、ヴァイオリンやクラリネットの演奏がもれきこえてくる。くわえて、泥酔した男女のさわぎ声が朝まで止まないこともしばしばだった。かわりに最寄駅からは歩いて十分とかからない。ようやく喧騒になれてきたころ、二段ベッドと食卓がすでに室内の半分を占めているにもかかわらず、触発された恋びとがアップライトピアノを家にかつぎこんできた。粗大ごみの有料回収を検討していた近隣学生から、教則本とあわせて破格で譲りうけたらしい。恋びとはバイエルから独学でゆびづかいの練習をはじめ、わたしは窮屈のあまり寝つきがわるくなった。
 気象庁が梅雨あけを発表し、季節は夏にむかっていた。アルバイトから帰ってきて照明をつけると、床のうえをねずみが這っていた。すこしまえに、駅舎の可燃ごみを物色するさまを目撃してはいたが、三階までのぼってくるとはおもわなかった。唖然としていると、ねずみは壁に接するように配置したピアノとフローリングとのすきまに潜りこんだ。気になって壁からピアノを離してみたが、ねずみはいない。妙な胸さわぎがして、わたしは光沢をたたえた洋琴の側面に耳をおしつけた。なかから密生した毛の擦れあうかすかな音と、げっ歯類に特有の、のどをひき絞ったような甲高い鳴き声がきこえてきた。
 五匹もいましたよ、たいしたもんですな、鍵盤にまかれたフェルトを毛布にして、長雨をしのいでいたんでしょうねえ、このピアノはどうします。処分するなら追加料金をいただければ、うちでひきとりますが。
 以前のピアノの持ち主はねずみの存在を知っていたに違いない。駆除業者の長広舌にてきとうな相槌で応じつつ、わたしはこのアパートを去る日もちかいとおもった。

 森をぬけて広野にでる。なだらかにもりあがった丘陵を、冬毛を身にまとって兎が駆けてゆく。もともとは田畑だったのか草原だったのか、あるいは居住区だったのかもしれないけれども、いっさいが雪に埋もれ、あとかたもない。吹雪ははげしくなっていた。予想をうらぎって、足の感覚が頭よりさきにきえた。景色もいちようで遠近がつかみがたく、歩いているのかあやしい。恋びとが突然くちをひらいたので、おどろいた。月蝕だといっている。いつのまにか月は中天にたっして、かなたに吊りさげられている。あいかわらずはちきれそうなほどおおきいが、孤のいちぶぶんが欠けていた。それよりもわたしは恋びとの声をひさしぶりに聴けたのがうれしくて、もっと喋ってくれないかと期待した。うまくまわらない舌で、なにかと質問をあびせてみた。ところが恋びとは反応をしめさず、だんだん億劫になってわたしも黙ってしまった。
 月はゆっくりと影にのまれていた。まぶたをとざしてゆくように輝きがうちしおれ、弓型に痩せおとろえたところで、最初にむしばまれた箇所が赤くにぶいひかりをこぼしながら再度、くらやみに浮かびあがりはじめた。その移りかわりからして、ぐるりがいちめんの銀世界になってから、ずいぶん時がすすんだとおもわれた。動いていないと訝っていたが、感覚がなくとも足はわたしをみちびいていたらしい。にわかに入り江にたっていた。凍った水面にさざなみはおこらず、降りしきる小糠雪はなぜだか積もることなく、氷の表面にふれると途端にみえなくなる。みずうみなのだか海洋なのだか、向こう岸がないのでわからない。水平線まで氷がつづいている。沖あいに月の鏡像がうつりこんでいたが、不思議なことにその月は黄いろく熟れて、月蝕まえのすがたを晒していた。空にかかった月は完全に地球にかくされ、赤銅いろの真円になっている。ただそれを眺めているひとみの感覚も脳のおもみも、わたしにはもはや感知できない。
 さあ、さあ、という恋びとの声が、外からというよりは、内がわから滲みだすようにきこえてきた。氷上にたたずみ、手招きをしながら待っているけはいがした。わたしは徐々におそろしくなってきて、恋びとを置いてひきかえそうかと思案した。汀をまたいでしまったら、もう帰れなくなる気がした。躊躇するわたしをみかねて、恋びとは焦れてきた。はやく来るようにうながされ、返事をしつつもわたしは怖くてしかたがない。なのに、うべなった拍子に抗いがたい力でひっぱられた。尻もちをついた銀盤のうえはなめらかでつるりとし、歯止めがきかずにわたしは勢いよくすべってゆく。月影だとおもったところは穴だった。まっさかさまに吸いこまれて、落ちながらわたしはついに安寧の場所にたどりつける予感がした。恋びとがとなりで笑んでいる。やがて落下がとまった。先刻まで蛍にも六花にもみえていたそれは、ほんとうは星のまたたきで、わたしは恋びととふたり、銀河やブラックホールのちらばる宇宙空間をたゆたい、からだのない抱擁を交わしているのだった。

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