久坂 蓮

過去の入眠の記録 クマ財団クリエイター奨学金 第5期奨学生

久坂 蓮

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  • 日本―フィンランド往復書簡 乾真裕子・久坂蓮

最近の記事

第十の手紙∶乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 蓮さん、とても大切な記憶を私に教えてくださってありがとうございます。あなたからのお手紙を読んで、第四の手紙のときには書けなかった、私が他者との断絶を感じた一番根源の経験を、あなたにお伝えしたいと思いました。 _____  私はタクシーの中で、「まゆ、なんか言ってあげて、ほら!」という声を携帯電話を通して聞き、一体この状況で父に何を言えばいいのか分からなかった。困惑していたわけではなく、病室で生を手放しかけている父に、この離れたタクシーの中から私が何を言えばいいのか、私が

    • 第九の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

       リクライニング式の診察台によこになり、わたしは歯科医に顔をのぞきこまれています。おおきくくちをひらくよう命じる医師の手には銀いろの医療器具がしっかりとにぎられています。白衣とマスクとで厳重に身をよそおった他人のまえで、対照的に無防備な姿勢をとらされたうえ、からだの内がわへとつながるプライベートな空間をまじまじとみつめられる状況にわたしはいささか困惑をおぼえるものの、あーんという子どもだましのかけごえにまんまとのせられて、素直に下あごをひきおろしてしまうのです。こうなるともう

      • 第八の手紙∶乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

         こんにちは。フィランドも、おそらく日本でも、寒い日が多くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?もうすぐ年末だと思うとびっくりしますね。私は過ぎ去った出来事をすぐ忘れてしまう人間なので、この一年という時間が早かったのか遅かったのか、いつもよく分からないまま年末を迎えます。そんなことを思いながら自分の日記兼創作ノートをパラパラと眺めていると、ある出来事を思い出したのでそのお話をしたいと思います。 ___  自分のノートを見返していると、今年の六月五日に精神が不安定に

        • 第七の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

           文通をはじめて気づけば三ヶ月がたちました。残暑は跡形もなくぬぐわれて、すっかり秋の気候です。しだいに日没のじかんがはやまってゆくのをかんじます。夜気はひえこみ、往来では外套をはおったひとのすがたもときおりみとめられます。わたしは実家からもらってきた電気毛布の電源をコンセントにつなぎました。  金銭的なりゆうで、同棲中の部屋にまだ十分な調度をそなえられずにいます。郊外に位置し、築年数三〇年にせまるリノベーションマンションの下層階という特質じょう、居住空間のひろさにくらべるとず

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        • 日本―フィンランド往復書簡 乾真裕子・久坂蓮
          10本

        記事

          第六の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

           お手紙をありがとうございました。蓮さんからお手紙をいただくと、読み終わったその瞬間から脳みそがぶわわぁぁぁっと活性化し、その瞬間を留めて言葉にしていかなければいけないのに、それを探しているうちに全てを忘れていってしまいます。言語以前のものを細胞が発しているのにも関わらず、それを言語に落とし込もうとした瞬間に消えてしまうような感覚です。  一方で、私は「言葉にできないもの」という言葉にいつも違和感を覚えます。私にその感覚がないのです。言葉にできないものなんてこの世にあるのでし

          第六の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

          第五の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

           お返事の済んでいない書簡をたずさえたままでながれる時間は、いつもとすこし勝手がちがっていて、洗濯物をベランダに干しているときや、夕食をつくるとき、恋びとが運転する車の助手席にすわってスーパーマーケットにむかっているとき、折おりにあなたへの断片的な返信が脳裏にたちのぼってきて、それに気をめぐらしているあいだ、視覚がとらえているはずの景色はとおくに追いやられ、ことばによってのみ構成される空間を、つかのま現実よりも身にせまった感覚で生きているようです。そうしてからだに溜まっていっ

          第五の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

          第四の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

           お手紙をありがとうございました。フィンランドに着いて、あっという間に二週間近くが経ってしまいました。たくさんのことが起こりました。何からあなたに伝えたらいいのか分からないまま、この手紙を書きはじめています。  まずはいただいたお手紙のお返事から書こうと思います。船便の手紙について触れてくださいましたね。私も航空便より船便の方が私たちのやりとりに合っている気がします。どこへたどり着くのかも分からず、さして喫緊の用もなく、ふわりふわりと揺れながら時間をかけて届けられる手紙が、

          第四の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

          第三の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

           あらかじめ文通をとりきめていたにもかかわらず、じっさいにあなたから返信をいただいたとき、すこし戸惑いをおぼえました。わたしがはなった声はでたらめな方角にとばされて、だれにもとどかぬままかたちをなくしてしまうようにおもえていたので、うけとめられ、はねかえってきたものが眼のまえにある状況をうまくのみこめず、いまもまだ、どこか浮遊したこころもち。「取りとめのない思考」とあなたはお書きになっていますけれども、わたしからすればその筆致はとてもおちついていて、もしかしたら一連のやりとり

          第三の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

          第二の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

           お手紙をありがとうございます。  私は今、フライトへ向けて絶賛準備中です。飛行機は9月2日の朝に大阪の伊丹空港を発ち、現地時間で9月2日のお昼3時にヘルシンキのヴァンター空港へ着きます。朝に日本を出てお昼に着くなんて、少し変な感じがします。  かばんに何かとても大事なものを入れ忘れている気がしますが、それが何なのか分かりません。向こうに行ってから気づくのだと思います。    旅に出るとき、いつも一番悩むのはどの本を持っていくかということです。今回も悩みに悩んでいます。6冊

          第二の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

          第一の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

           フィンランド、という単語のひびきを、くちのなかでしきりに転がしてみると、なんだか不思議なきもち、そういう名前でよばれる国が、この世界に存在すると知ってはいても、じっさいに行ったことはないから情景がともなわなくて、がらんとしたことばの骨ぐみは、純粋な音の反響としてのみわたしのそばにある。その状態であるというだけで、わたしはもう満たされて、歴史、風俗、観光資源、そうした実在の《フィンランド》にまつわるこもごもには、さほどは興味をそそられずにいるのです。言語がさししめしているもの

          第一の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

          鱗甲(2021.3)

           天井に設置されたスピーカーが、休憩時間のおわりをくりかえし告げている。わたしは席をたち、空になった器(うつわ)を返却口にもどして食堂をあとにした。渡り廊下で接続された研究棟にうつり、エタノールの粒子が四方からふきつける全身消毒室をくぐりぬけて更衣をすませると、白衣とゴーグル、マスクでいちように身をよそおった相似形の構成員たちにいりまじる。龍の解剖にいかなくてはならない。 〈研究所〉にきてすぐに、くだんの生体の腑わけをしたわけではなかった。往時はマウスやモルモットをかわきりと

          鱗甲(2021.3)

          20(2018.1)

           わたしたちはゆっくりと変質してゆく、うつりげではかない存在です。これからどこへむかいどんなふうになるのか、まだなにもわからない。明日の朝食さえわたしはまだ知らないわけですから、きっとそうやって、いつまでも答えのない道をすすんでゆく。かなしいとおもう、きもちも、およそ一瞬のものですね。忘れてしまうものですね。忘れることが成長することならわたしはほんとうは、もう成長などしなくていいとかんじます。でも母は、悲しくなくなることは忘れることとはちがうと、いいました。悲しくなくなっても

          20(2018.1)

          孕む (2016.8)

          指の関節を鳴らしすぎたために節くれだった手になったのかもしれない、やめなさい、といわれていたのを無視してつづけてしまったのは、やめなさい、と怒られることでははおやの注目をあびることができるというあまやかな幼児的願望のはてであったのだろうか、それとも存在の嫌悪、とでもいうべきものがからだからふつふつと沸きたつため小骨折をひきおこすことでかろうじてふさぎこんでいたのか、わかるはずもないことを車輪のついた直方体の箱にとじこめられてひたすら運ばれてゆくあいだにかんがえるのが好きで、網

          孕む (2016.8)

          伝言(夕立と情事  (2018.9)

          お、と、き、こえ、て ふりそい 嗤うひとびと (ぴとぴと  無数に雨だれ(か いますか おもいだし もし(もし もう一度  通信 ほし いでもきみ、《偽卵》   (☆ かがり火を 過去む  午後の 文通だ[殻] (質量0でしょう はやく いそぎ でないと消える  傘(なるわたしと記憶 挿し  出す (射精 それで、 巣食/救 ったことにする、というの? 身、つめ、あいま、わりあい [殻]めるのにも (ふたたび真空 ちからを要するね とかんじ だ

          伝言(夕立と情事  (2018.9)

          月蝕(2021.1)

           市街地をはずれてどのくらい時間が経ったのか、はっきりとはわからない。県道をさししめす青いろの案内標識も、ストレート葺きの家屋や信号機も、道の端にあらわれなくなってひさしい。いま路肩には視界のはてまで、まっしろな雪をかぶった枯れ木がたちならんでいるばかりで、景色に変化がない。来た道をたどろうとふりかえっても、足跡はつけたそばから吹雪にかききえている。雲はながれをやすめて天上でよどんでいた。その分厚くかさなった層のすきまから、まるまると肥えた月だけが、いやにはっきりと顔をのぞか

          月蝕(2021.1)

          琺瑯を削ぐ(2017.5)

           先週から右の奥歯にできた虫歯が痛くてでも歯医者に行く時間なんてないくらい忙しいと自分にいいわけをするわそもそも時間があってもあんなところ行きたくないわで結局ほったらかしにしているのだけれどいつまでも行かないでいると虫歯菌が脳にはいって危険な病気になることがあるというほんとうか嘘かさだかでないことを母親がいうから馬鹿じゃないそんなことあるわけないじゃんと鼻で笑うとあるんだからこのまえ見たもの新聞でとかえされたので二階にあがり自分の部屋の戸口をしめて寝台に横になって携帯端末で「

          琺瑯を削ぐ(2017.5)