第五の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)


 お返事の済んでいない書簡をたずさえたままでながれる時間は、いつもとすこし勝手がちがっていて、洗濯物をベランダに干しているときや、夕食をつくるとき、恋びとが運転する車の助手席にすわってスーパーマーケットにむかっているとき、折おりにあなたへの断片的な返信が脳裏にたちのぼってきて、それに気をめぐらしているあいだ、視覚がとらえているはずの景色はとおくに追いやられ、ことばによってのみ構成される空間を、つかのま現実よりも身にせまった感覚で生きているようです。そうしてからだに溜まっていったきれぎれの返信を、ようやくひとくさりの文章として書きおこそうとしたものの、まだなにも文字をうちつけていないMicrosoft Wordのまっしろな画面と対峙すると、あらかじめ想いうかべていたはずのおおよその文面がこんどは霧にのまれたみたいにあいまいになって、わたしはどこにいったらいいのかわからぬままに、指をうごかさざるをえなくなり、ゆっくりとくちから繊維をたぐりだすカイコ蛾よろしく、遅々としたタイピングをはじめます。

 先日、恋びととくらすマンションのいりぐちで蛇をみました。階段をつたって郵便うけがならぶ一階におりたさい、べつの部屋にすんでいるのであろう男のひととでくわしました。
 蛇おるよ、気いつけて。かれはそういいました。
 え、へび、とわたしはかえしました。
 こげ茶いろとオリーブいろの濃淡が、鱗でおおわれた総身に縞もようをつくっています。あまりにも突然だったので、エントランスの扉をまえにたおやかに身をくねらせた蛇と一定の距離をとり、男のひとと茫とながめました。マンションのすぐそばには水田がひろがっており、シロサギが細枝さながらの脚でそのうえを悠長によこぎっていましたし、掘割にはめだかやハヤのたぐいが泳ぎ、雨の日には道の端の下草にアマガエルがとまっていたりもしましたが、蛇までいるとは予想していませんでした。にわかに蛇はあたまをもたげて、外づけのスロープのほうへひきかえすと、脇にあった植えこみに逃げていきました。
 あーむこういったむこういった。男のひとは安心したくちぶりで駐車場にむかっていきました。五十がらみで、銀ぶちの眼鏡をかけていました。わたしも歩道にゆき、ドラッグストアで調味料やら洗剤類やらをかいました。
 ここでの生活は、おちつきます。家族とくらしていたときもそこまで都会にすんでいたわけではなかったけれど、友人と遊ぶ約束をすればたいていは新宿だとか池袋だとか原宿だとか、夜も建物のあかりできらめいてひとの行き交いがたえない場所が待ちあわせに指定されます。わたしは雑踏がにがてです。会食をするのも、きらいとまではいかないですが、ほどほどでいいとかんじます。引っ越して以降、わたしは東海地域で活動するクマ財団の同期奨学生以外で近隣に知りあいがいないので、人間関係が生起するストレスないし面倒ごととは、だいぶ距離をおいた明け暮れをすごすようになりました。
 そのぶん、家事全般が日々こなすべき要件にくわわり、インターネットでレシピを検索しつつ、慣れない包丁さばきで料理をこしらえるなど、しています。おととい《つくりおきおかず》の本も買いました。

 あなたからいただいたお手紙は、こういった起居のなかでつねにわたしのかたわらにありました。経過した時間のうらで、とうぜんあなたはわたしのみている景色とはまったくべつの世界の様相をみ、ことなる思考をはたらかせながら日常をおくっていたはずで、あらためて意識するとそれはとても不思議なことですね。日本はだんだん季節が秋へとうつろって、からだにまといつく空気にどこか冴えた趣(おもむき)がまじるようになりました。暑い日もごくまれにみうけられるものの、夏のさかりの無法図なたけだけしさはなりをひそめて、すっかり角がとれています。
 私信を拝見して、「考えないと言語が出てこない状況」に身をおいたあなたの日記の一節を、うらやましい気持でながめました。母国語でひとと会話をするときたしかにわたしたちは、ことばの正確な発音、舌やくちびるのうごめかしかたについては逐一たちどまって思案したりせず、なかば不随意に構文をつくりあげているかもしれません。そのすべてにつかえがはさまれている状態というのは、きっと相当なくるしさがともなうでしょう。
 言語体系をまなびはじめたばかりの幼児にもきっと似かよっているのでしょうが、かれらには母語じたいがそなわっていないので、言語ごとの規律のちがいにへんに学習を阻害されるひつようもありません。書きことばにおいても、外国語のスペリングをとどこおりなくつづるのは日ごろの習熟がかかせないと推察します。
 とはいえ、わたしは執筆や読書のさなかで、つど日本語にもこの《外国語》めいた印象をおぼえます。外語学習とかんぜんに一致した感覚ではないでしょうけれど、ことばをあやつる困難は、つねにわたしをとりまいているわけです。本のページをめくっていてわからない名詞や単語にでくわしたさいに、わたしは書架にならんだ小学館の『日本国語大辞典』をとりだします。この国語辞典は十巻分冊になっていて、掲載された項目のかずはおそろしいほど膨大です。ちょっとのぞいただけでも、知らない語彙であふれかえっています。その繁茂を眼にするたび、わたしはきまってたじろぎます。おそらく人間はほんとうの意味では、ただひとつの言語も完璧に修得できないまま一生をおえるにちがいありません。ながい年月をかけて先人たちがつくりあげてきたものではありますが、むしろだからこそ、ことばはもう自立したいきものの様相を呈しています。
 だれにも使われずに辞書のなかだけでひそやかに息をしている、孤独な単語もあるとおもいます。わたしはかれらを掬いあげてほかのことばたちといっしょにさりげなく文中にちりばめてあげたいとかんがえるのですけれど、読み物もまた会話とおなじく《他者への伝達性》をまったく排するわけにはいかないので、どこまでもちいるべきか、たえず悩んでいます。あるいは、悩みたいゆえにわたしは文字を介した表現の道をこころざし、あなたのフィンランドでの苦闘にも惹かれているのかもしれません。

 ところで、読む行為についてのあなたの所感にはたいへんおどろきました。「小説の中で起こったことを小説の中で起こったことだと思えない癖が昔から」おありで、「感情移入するというよりはここに描かれているのは私だと、心からそう思ってしまう」、わたしは物語のなかの人物たちに共感しはしても、自―他の境界までうしなわれる体験をした記憶は、おもいだせるかぎりありません。じぶんでかいた原稿にかんしては、どんなに幻想のいろあいがつよくてもすくなからず自己がふくまれている気がしますが。
 映像をもちいた作品「月へは帰らない」であなたはどぎついアイメイクをほどこしたかぐや姫に扮していましたし(ドラッグクイーンふうの化粧だと、名古屋でおこなわれたグループ展『メガネ、かえてみる?』の展示紹介にはかかれていた)、演劇にかかわっていたというお話もうかがいましたが、ご自身で脚本をつくるおりや演技をするおりにも、ともすれば自我がおぼろげになる体験をなさっているのでしょうか。

 フィンランドを留学さきにえらんだ理由についても、お答えいただきありがとうございました。「ジェンダー平等」とは具体的にいかなる状態をさすのか、どの程度の《ジェンダー》をふくんでいるのか、いまははっきりとつかめないのですけれど、今後あなたのおたよりでそのようすを垣間みられればさいわいです。ひとまず「とても仲が良さそうで背格好も似た二人が手を繋ぎながら」外をあるくすがたには、あこがれをいだきました。「奥底にある気持ちを伝えられるような人間に」、わたしもなれたらうれしいとおもいました。
 
 今回はことばにまつわる記述におおくを割いてしまいました。展示のご感想などはまたつぎの機会に、送らせていただきます。フィンランドにも四季はございますか。
 どうかご自愛くださいませ。
 
          
         2021・10・17 久坂 蓮

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