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日本―フィンランド往復書簡 乾真裕子・久坂蓮

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第一の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

 フィンランド、という単語のひびきを、くちのなかでしきりに転がしてみると、なんだか不思議なきもち、そういう名前でよばれる国が、この世界に存在すると知ってはいても、じっさいに行ったことはないから情景がともなわなくて、がらんとしたことばの骨ぐみは、純粋な音の反響としてのみわたしのそばにある。その状態であるというだけで、わたしはもう満たされて、歴史、風俗、観光資源、そうした実在の《フィンランド》にまつわ

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第二の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 お手紙をありがとうございます。
 私は今、フライトへ向けて絶賛準備中です。飛行機は9月2日の朝に大阪の伊丹空港を発ち、現地時間で9月2日のお昼3時にヘルシンキのヴァンター空港へ着きます。朝に日本を出てお昼に着くなんて、少し変な感じがします。

 かばんに何かとても大事なものを入れ忘れている気がしますが、それが何なのか分かりません。向こうに行ってから気づくのだと思います。
 
 旅に出るとき、いつ

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第三の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

 あらかじめ文通をとりきめていたにもかかわらず、じっさいにあなたから返信をいただいたとき、すこし戸惑いをおぼえました。わたしがはなった声はでたらめな方角にとばされて、だれにもとどかぬままかたちをなくしてしまうようにおもえていたので、うけとめられ、はねかえってきたものが眼のまえにある状況をうまくのみこめず、いまもまだ、どこか浮遊したこころもち。「取りとめのない思考」とあなたはお書きになっていますけれ

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第四の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 お手紙をありがとうございました。フィンランドに着いて、あっという間に二週間近くが経ってしまいました。たくさんのことが起こりました。何からあなたに伝えたらいいのか分からないまま、この手紙を書きはじめています。

 まずはいただいたお手紙のお返事から書こうと思います。船便の手紙について触れてくださいましたね。私も航空便より船便の方が私たちのやりとりに合っている気がします。どこへたどり着くのかも分から

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第五の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

 お返事の済んでいない書簡をたずさえたままでながれる時間は、いつもとすこし勝手がちがっていて、洗濯物をベランダに干しているときや、夕食をつくるとき、恋びとが運転する車の助手席にすわってスーパーマーケットにむかっているとき、折おりにあなたへの断片的な返信が脳裏にたちのぼってきて、それに気をめぐらしているあいだ、視覚がとらえているはずの景色はとおくに追いやられ、ことばによってのみ構成される空間を、つか

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第六の手紙:乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 お手紙をありがとうございました。蓮さんからお手紙をいただくと、読み終わったその瞬間から脳みそがぶわわぁぁぁっと活性化し、その瞬間を留めて言葉にしていかなければいけないのに、それを探しているうちに全てを忘れていってしまいます。言語以前のものを細胞が発しているのにも関わらず、それを言語に落とし込もうとした瞬間に消えてしまうような感覚です。
 一方で、私は「言葉にできないもの」という言葉にいつも違和感

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第七の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

 文通をはじめて気づけば三ヶ月がたちました。残暑は跡形もなくぬぐわれて、すっかり秋の気候です。しだいに日没のじかんがはやまってゆくのをかんじます。夜気はひえこみ、往来では外套をはおったひとのすがたもときおりみとめられます。わたしは実家からもらってきた電気毛布の電源をコンセントにつなぎました。
 金銭的なりゆうで、同棲中の部屋にまだ十分な調度をそなえられずにいます。郊外に位置し、築年数三〇年にせまる

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第八の手紙∶乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 こんにちは。フィランドも、おそらく日本でも、寒い日が多くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?もうすぐ年末だと思うとびっくりしますね。私は過ぎ去った出来事をすぐ忘れてしまう人間なので、この一年という時間が早かったのか遅かったのか、いつもよく分からないまま年末を迎えます。そんなことを思いながら自分の日記兼創作ノートをパラパラと眺めていると、ある出来事を思い出したのでそのお話をしたいと思います

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第九の手紙:久坂蓮(日本―フィンランド往復書簡)

 リクライニング式の診察台によこになり、わたしは歯科医に顔をのぞきこまれています。おおきくくちをひらくよう命じる医師の手には銀いろの医療器具がしっかりとにぎられています。白衣とマスクとで厳重に身をよそおった他人のまえで、対照的に無防備な姿勢をとらされたうえ、からだの内がわへとつながるプライベートな空間をまじまじとみつめられる状況にわたしはいささか困惑をおぼえるものの、あーんという子どもだましのかけ

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第十の手紙∶乾真裕子(日本―フィンランド往復書簡)

 蓮さん、とても大切な記憶を私に教えてくださってありがとうございます。あなたからのお手紙を読んで、第四の手紙のときには書けなかった、私が他者との断絶を感じた一番根源の経験を、あなたにお伝えしたいと思いました。
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 私はタクシーの中で、「まゆ、なんか言ってあげて、ほら!」という声を携帯電話を通して聞き、一体この状況で父に何を言えばいいのか分からなかった。困惑していたわけではなく、病室で

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