孕む (2016.8)

指の関節を鳴らしすぎたために節くれだった手になったのかもしれない、やめなさい、といわれていたのを無視してつづけてしまったのは、やめなさい、と怒られることでははおやの注目をあびることができるというあまやかな幼児的願望のはてであったのだろうか、それとも存在の嫌悪、とでもいうべきものがからだからふつふつと沸きたつため小骨折をひきおこすことでかろうじてふさぎこんでいたのか、わかるはずもないことを車輪のついた直方体の箱にとじこめられてひたすら運ばれてゆくあいだにかんがえるのが好きで、網膜に映じてはとろとろとかたちをもつまもなく後方にながれさってゆく緑いろ、そのいろがまなうらに溜まりつづけておぼれるとなると、このバスの蠕動は羊水にひたされていたころをおもいおこさせる、唯一のものであるのだ、こうして、一瞬一瞬と眼にみえないへその緒はのびつづけてひとりどこまでゆけばいいのだろう、もう足がおぼつかないから運ばれつづけているのに、二足歩行をはじめてしまったらなぜ四つ足であるくことが許されなくなるのか、どちらもはんぶんはんぶんに暮らしてみてはどうかとかんがえをめぐらし、横断歩道をあるくひとびとのあるいはながい手足をもてあましていた男は虎の要領で、あるいはO脚に長年悩まされていた女は兎やら蛙やらをみならって、とまた物をおもうばかりでつねに真空状態にたちかえるということがない、逆流は全身をめぐる微細な管にいたるまで禁止されているのであるから、あらがうことさえ馬鹿げていると鼻で笑われているきがする、とはいえだれに、いつもだれかの視線にさらされているので錆びつくのはただ空気に露出しているだけの金属よりもはやい、四方をみまわして視線のおくりぬしをさがすと乗客ではなく、運転手が頭上にかかげられた小さなミラー越しにこちらをみつめていて、大ぶりのマスクに隠されて表情の機微は眼じりのしわのよりや瞳の紡錘形のわずかな変化でしか悟ることができないからなんとなく責めたてられているようにみえたがいったいなぜか、おもいあたるふしがひとつもないようで、大いにあるようにかんじてしまう、そのうちのなにをもって憤りをかんじるのか、とりとめもないものを胸につめていっぱいになると誰にでもいいからぶつけてしまいたい衝動に駆られるものなのだとしたら、たまたまそれが二十時五十分発新宿駅西口行にのった乗客のひとり、幸のうすそうな眼のしたに黒黒と隈をまといくちをなかばあけたままうつろなまなざしを宙空にむけている、ようするにどこかでみたことがあるような一介の会社員にそそがれたにすぎず、またこのようなこともあるかもしれない、運転手は制帽のしたからのぞくもみあげに白髪を織りまぜているから推定するところ五、六十代、かれには手塩にかけてそだてた高校二年生の一人娘がいたが高名な進学校の特別進学級でまわりの生徒たちが、配布された日日の家庭学習時間を書きこむ用紙に月曜四時間、火曜四時間、水曜三時間、彼女ひとりが月曜一時間半、火曜は零時間、水曜も零時間、としるすことに疲れ、いっぽう零と記することの背徳感に味をしめてしまったため非行にはしりはじめた、ついには教師と蒸発しその教師の顔かたちが偶然乗りあわせたひとりの会社員によく似ていたというぐあいで、はたしてこの話は誰にまつわる話だったのか、自分の高校生時代を回想しながらそこにひとづてにきいた話の数数を肉づけていったとき、どこかで、脳内で強引にこねまわされた勝手な想像とおなじふうに生きている人物がいないとはいいきれないのだからこのあたまはひとつで数十億人を生きている、疲れるのもあたりまえだった、ひとつにして数十億人を生きる、身をよじらせた無数のプラナリアがひしめく半透明な脳の球体水槽があたりいちめんいくつも明滅している事実がおそろしくてたまらなくなったと同時に、尿意をもよおした、一刻もはやくここからでたい、ここから、この球体水槽をつつむさらに外部の箱型のさきにまだ果てしない天蓋がひろがっていて、そのすべてからでてゆくばあい、もう二度ともどってはこられない、やはりもどりたいという願望ほどかなわないものはひとつとしてないし、維持しつづけることも不可能で波のゆらぎが風をつくり時もまた微細な粒子となって風にたゆたいちりばめられていてそれが折にふれて鼻腔にもぐりこみくさめになり年じゅう鼻をすすって赤らんで皮がむけたところを指でかく癖も、やめなさい傷がシミになってのこってしまうから、といわれていたのを無視してつづけてしまったのは、やめなさい、と怒られることでははおやの注目をあびることができるというあまやかな幼児的願望のはてであったのだろうか、それとも存在の嫌悪、とでもいうべきものがからだからふつふつと沸きたつため、鼻のしたのかぶれをひきおこすことでかろうじてふさぎこんでいたのか、わかるはずもないことを車輪のついた直方体の箱にとじこめられてひたすら運ばれてゆくあいだにかんがえるのが好きで、網膜に映じてはとろとろとかたちをもつまもなく後方にながれさってゆく緑いろ、そのいろがまなうらに溜まりつづけておぼれるとなると、このバスの蠕動は羊水にひたされていた頃をおもいおこさせる、唯一のものであるのだ、

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