鱗甲(2021.3)

 天井に設置されたスピーカーが、休憩時間のおわりをくりかえし告げている。わたしは席をたち、空になった器(うつわ)を返却口にもどして食堂をあとにした。渡り廊下で接続された研究棟にうつり、エタノールの粒子が四方からふきつける全身消毒室をくぐりぬけて更衣をすませると、白衣とゴーグル、マスクでいちように身をよそおった相似形の構成員たちにいりまじる。龍の解剖にいかなくてはならない。
〈研究所〉にきてすぐに、くだんの生体の腑わけをしたわけではなかった。往時はマウスやモルモットをかわきりとし、徐々に犬や馬など大型の対象を相手にしていった。これは体内につまっているめいめいの器官にかんして、動物門の垣根をこえた一定の共通性を学習し、なおかつ解剖器具のあつかいに慣れさせる目的があったのだとおもう。昼食をはさんで午前中は座学、午後は実技というのが〈研究所〉の生活におけるきまりだった。
 実技の種類も、最初は薬剤を投与したり顕微鏡で細胞をのぞきこんだり、飼育室で給餌をおこなったりとさまざまだった。〈管理者〉によっておのおのの適性がはかられ、しまいにわたしは解剖班への帰属がきまった。こちらの要望はまったく吟味されなかったものの、腹をさいても臭気にむせることなく、動揺をおさえていられたのだからこの仕事は自分にあっているのだとかんじる。
 龍の分類も講義をつうじておぼえた。爪の本数や毒腺の有無、頭部に生える一対の角にきざまれた節の数、構造色をしめすかたい鱗(うろこ)様組織をいちまいえらんで観察したさいの、かたちの相異や分子のむすびつきのちがい等が種を同定するてがかりだった。
 いつから〈研究所〉にいるのか、どのような経緯でやってきたのかは判然としない。ここにはカレンダーやテレビといった日付を確認できる媒体がいっさい据えられておらず、ひとりひと部屋あたえられた生活棟の居住空間にも、長針と短針をとりはらって起床時刻にだけけたたましく鳴りひびくめざまし以外に、時の経過をおしえるものはない。窓もうがたれていないので、太陽の運行をたしかめる機会にもありつけなかった。外での暮らしをおもいおこそうとすると、頭にもやがたちこめて思考がさえぎられる。感情の起伏もいつしかうすれてしまいそうだが、〈研究所〉には生活棟と研究棟とはべつに、賭博場やバー、屋内遊園地の密集した娯楽棟がしつらえられており、定期的に郵便うけになげこまれる労働対価をつかって気晴らしの休暇をすごすことができた。みっつの区域はそれぞれが渡り廊でつながり自由な往来がかなうのだが、〈研究所〉自体からでるための玄関口は生活棟の一階にしかなく、合金製の巨大なとびらをこころみにおしてみようという話がもちあがったおりに、複数人がかりでちからをくわえてもいっこうにドアのひらくけはいはみられなかった。指揮をとったのは当時の恋びとで、かれは翌日すがたをくらまし、いまにいたるまで音沙汰がない。
 とはいえ〈研究所〉でひとがきえるのは珍しいことでもなんでもなく、風説によるとそれには「龍のたたり」が関係しているらしい。交際相手が失踪してもたいしたかなしみが湧きおこらないのはやはり、変化がとぼしいにもかかわらず連日龍を安楽死させるあけくれの代償だろうか。
 龍の年齢や種差によってわずかな変動はあるものの、執刀は一体につきたいてい六、七人の研究員で実施するのがつねだった。きょうは班員に龍の解体がはじめてだというものがいた。はさみをもつ手をふるわせた彼女に、わたしはセンザンコウの腑わけをかえりみるよう助言した。この個体の鱗片はふちが鋸歯状をおびているけれども、剥皮じたいはやわらかい腹部をもつセンザンコウに、あえて背部から刃をさしこんでゆく演習時とおおまかにはかわらない、開腹したのちはもっと単純でボールパイソンやらワニの腹のなかを参照すればよい、ラットにも遠くない、ただし血液はヘモシアニンを多量にふくむため青く、臓器があなたにいだかせる嫌悪感がもし赤い血をみなれていることに起因するのであれば、抵抗はよりよわめられるにちがいない、以上をわたしは説明した。刃さきだけをもちいて浅い切断をかさねてしまうのは素人にありがちの失敗で、そうすると切開線がうつくしくないのだが、なんとか彼女は肛門まできりおおせた。血管を傷つけないように警戒しながら臓物をあらため、素描をおこなう。龍はまぶたをおろして昏々としたねむりのうちにあった。麻酔の量がたりずに暴れだしてしまったばあい死傷者がでるのは確実なので、じゅうぶんに処置がほどこされているようだった。肋骨の檻に幽閉されて心臓がゆるやかに拍動している。そろそろ「放血」をおこなってはどうかと仲間の声があがった。こいつを楽にしてやらないと。わたしはうなずき、「たたり」がおとずれたとしてもなんら支障はないのだとかんがえつつ、大動脈に剪刀(せんとう)をあてがった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?