大切な人が亡くなった時、何を思うか何を感じるか、私はどう生きるか


とても大切な人が亡くなった。実家の前に住んでいたおばあちゃん。うちの実家はいわゆる借家で、33年前に引っ越してきた。その時から前にご夫婦で住んでいた。その後私が生まれ、おばちゃんの孫ともよく遊んでいた。田舎生まれなので、よく回覧板をもっていったり、偶にご飯を食べたり、一人っ子だったのもあって学校終わりに面倒を見てもらってたりしていた。

おばちゃんはいつもすごく明るい人だった。絶対に人が嫌な気持ちになることを言わない、太陽みたいな人だった。私が中学にあがる頃、おじさんが亡くなった。元々校長先生をしていた、寡黙で紳士なおじさんだった。おばちゃんはそれから、12年くらい、ずっと1人で、娘さんが住んでいる隣県にも行かず、あの立派な家で、96歳まで1人で暮らしていた。『ボケ防止になるから』と昔からよくピアノを弾いていた。元々音楽の先生だったから、とても上手なピアノだった。回覧板を持っていく時、聞こえてくる音色がとても好きだった。

1/30、母から珍しく『電話出来る?』とLINEが入った。嫌な予感がしていた。母から電話が来ることも、そんなことをわざわざ聞いてきたこともなかったから。怖くてその返信をせず、自分から電話をかけた。母は泣いていた。おばちゃんが亡くなったと。正月に会いに行ったのが最後になってしまったなんて思えなくて、翌々日葬儀に行くために実家に帰った時も、まだおばちゃんがいるような気がして、なんとも言えない気持ちになった。新幹線で帰り、実家に立ち寄り喪服に着替え、葬儀に出た。葬儀場に入るまで、何の実感も湧かなかったのに、部屋に入って遺影をみて、何も見えなくなった。遺影が余りにも素敵な笑顔で眩しくて、話しかけているような写真だったから。『まあ!来てくれたんかね!』と聞こえてくるような遺影だった。言葉が何も出なかった。

おばちゃんは1人で家の中で倒れていた。たまたま回覧板を回しに来た父が発見した。父は消防士を長年してきていたので、慌てて蘇生をした。それでも、もう死後硬直が始まっていた。亡くなって5日が経っていた。あとからきいた父の『亡くなっていると分かっていても蘇生を辞めるなと教えているけれど、あまりにも死後硬直が進みすぎて、手を止めてしまった』という話が頭から離れなかった。そんなおばちゃんの最後の姿は、葬儀屋の人がしてくれたのであろう、とてもとても、綺麗な姿だった。まるでただ、寝ているだけのような、あまりにも死後とは思えない、美しい寝顔だった。またそれをみて、泣いてしまった。

葬儀の間、ずっとおばちゃんと話をした。次帰る時はGW、時間が合えばご飯に誘おうと思っていた。おばちゃんは本当に優しいから、私が帰省の度に顔を出したり、お土産を渡したりするだけで、喜んで涙を流す人だった。『本当に本当におりこうさんやねぇ』『お父さんもお母さんも、こんな娘がおって幸せやねぇ』そう会う度に言ってくれるおばちゃん、葬儀の間遺影と向き合っている時間もずっと、声だけが耳に残っていた。私はずっとネガティブだから、いつも自信がなかった。でもおばちゃんに会ってそう言ってもらう度に、いつも心が強くなれた。手を握ってくれたあの感触と温かさが、亡くなって1ヶ月以上経つのにまだ手に記憶が残っている。

最後、花を入れる時、両親が話しかけていた。
『早く見つけてあげられなくてごめんね』『本当に今までありがとうね』『おばちゃん、ずっと楽しかったよ』そう言って泣いていた。父に関しては、実の父親(私で言う祖父)が亡くなったときに涙ひとつ零さなかったにも関わらず、葬儀中もずっとグズグズ泣いていた。あそこまで泣いている両親を過去見たことがなかったのだけれど、そりゃあ30数年も、引っ越してきた時からの新婚の時から、私が生まれた時も、小学校中学校高校と上がった時も制服をみせにいったり、小学校の時は運動会にもきてくれていたり、そして私が家を出てからもずっと顔を合わせ続けていたのだから、両親にとっても悲しい別れだったに違いない。96歳だからこそ、1人で死んでしまうという事は頭には我々もあったものの、いざ、あんなにも良くしてもらい、あんなにも大切な人が孤独死という形になってしまった事も、そして5日も寒い寒い日にそれに気づかなかったことも、余計悲しみと申し訳なさが詰まってしまっていた。私は両親に、なんの声も掛けられなかった。そして私もまた、おばちゃんの頬を触り、『ありがとう』としか、気持ちがあまりにも溢れすぎて言葉が出なかった。
近年はおばちゃんの体調もあってか、糖尿病の話を聞いていたのでお土産を買っていなかったのだけれど、天国にいくまでにでも食べてくれのつもりで、お土産と手紙を一緒にいれさせてもらった。家族葬だったのに快く受け入れてくれた娘さんたちには本当に感謝しかない。

霊柩車が去ったあと、我々も車を家まで走らせた。終始無言だった。すすり泣く音だけが車内に響いた。だか次の瞬間、見覚えのある車を追い越した。



霊柩車だった。




『は?wwwwwwwwwwwwww』
あまりにもおかしすぎて変な笑いがでた。
『まって、霊柩車って追い越していいの?』『いや絶対だめでしょwwwww』と私と母が思わず大爆笑
運転していた父『いやだって気づいたけと車線変更できなかったし…』と父も大爆笑
結局おそらくではあるが、霊柩車が近所の火葬場に着く前に、実家についてしまった。

『おばちゃん、大爆笑じゃない?笑』
家族で笑った。おばちゃん、追い越してごめんね。追い越すようなご近所さんでごめんね。なんとなく、笑い声が聞こえた気がした。


週末まで休みを貰っていたのだが、急遽な帰省はあまりにも何も片付かなかったため、土曜日には家に帰る予定だった。
2/3の夜、飛行機で帰る予定にしていた。
当日15:30。その日は雨が降っており、恵方巻きを取りに来いという祖母の家にいた。16:00、一通のメールが届いた。

『欠航のお知らせ』


は?ってこの1週間何回目かの疑問符がでた。え、そんな急に飛行機欠航することある?フライト19:00だが?と思いお知らせメールを見たところ、機体不良があり、代わりの機体が揃わないため欠航とのことだった。そんなことある?直前で予約したから空き席も見ているけどかなり埋まっていたのに?欠航?となって我々パニック。急遽新幹線を取り直し、駅まで急いだ。

駅までいく途中、ふと母が言った。
『飛行機、こんな急遽無くなるとか困るけどさあ、機体不良、おばちゃんが見つけてくれたのかもね。』

言葉に詰まった。

新幹線に乗り、両親から見送られ、ホームを出発した。両親の顔が見えなくなった瞬間、さっきの母の言葉を思い出し、何故かひとりで泣いていた。だってきっとそうだとしか思えなかったから。
周りからみたらひとり暮らしの娘が、故郷を離れた寂しさで泣いていると思われただろう。こちとら一人暮らし8年目だわと思いつつ、泣き止むことができなかった。外はまだ、雨が降り続いていた。


葬儀から早1ヶ月が経った。もうそんな、まだそんな、どちらとも思える日にこれを書き記している。人はいつしか別れが来るものだと、何事も順番だと、分かってはいるのだけれど、あまりにもこんなに辛く悲しいことだということを、改めて身をもって知った。有難いことに身内の親族は皆まだ元気なこともあり、こういった訃報が近年無さすぎたが故、また前触れがなかったので余計に、とても心が重たい1ヶ月だった。こんな別れが、喪失感が今後何回もあと待ち受けていると思うと、生きていくのが怖くなった。

それでも人は生きていく、なんて余りにも薄っぺらすぎる言葉なのだけど、たまたま直前で読んでいた本のタイトルは
『この気持ちもいつか忘れる』
住野よるさんの本、中身は恋愛絡みのものなんだけれども、最後のシーンは恋愛に限らず、大切な人との出会いと別れ全てに通じるものがあった。本当にたまたま読みかけの本を新幹線で読もうと持ってきていたのだけれど、この本を読み切った上で、葬儀に望めたことは、とても良かったように思う。(本の内容の評価でいうと☆3くらいなのだが。)

この気持ちも感情も、いつかはきっと忘れる。だけれど、忘れるものでも、手放してはいけない記憶なのだと思う。おばちゃんの温かさも、かけてくれた言葉も、声も匂いも、きっといつかは忘れてしまうのだろう。形に残らないものって、そういうものだから。だけど、大切にされたその事実だけは、何も変わらないものであり、死ぬまで体に刻まれているものなのだと思う。それだけは、私が生きている間は、大切にずっと抱えていたいと思う。

おばちゃんの手紙にこう書いた。

『○○○ちゃん(私の名前)の結婚式までおばちゃん頑張って生きなきゃ!ドレス姿、きっと綺麗だろうね〜』って言ってくれていた夢、生きている間に叶えることは出来なかったけど、私がいつかウェディングドレスを着る時は、写真を撮る時は、一緒に撮ろうね!

何となく、本当に何となくだけど、
叶うような気がしている。わかんないけどね。

今まで本当にありがとう、
大好きなおばちゃん、いつまでも見守っていてね

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