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あえて誤読するという可能性

学生時代に一番苦手だった科目は、国語の現代文だった。筆者が何を言いたいのかをハッキリと掴めなかったからだ。
しかし、大学を卒業したあとになってから、なぜか現代文が好きになってしまった。

高校入試と大学入試 ありがちな論旨が違う

私が学生だったころや大学を卒業した時代は、環境問題が出題されることが多かった。
実家の新聞に入試の問題が掲載されており、それを解くのが好きだったのだが、あるとき、地元の公立の高校入試の文章とセンター試験の現代文を見比べて気づいたことがある。

公立の高校入試は、文章の主張が「環境問題は大事だから、私たちの日々の行動も変えていかないといけない」ということにだいたい収束していた。
一方の大学入試は、「環境問題というが、それは人間にとって都合の悪い環境なだけであって、地球全体のメカニズムのなかではそれもまた自然の摂理なのである。そこには人間のエゴがある」という主張が含まれていたことが多かったと思う。

入る学校の段階によって、現代文にでてくる筆者の主張の傾向が違うことに気づいて、私はようやく、その文章を問題に選んでくる存在がいるのだと実感したように思う。
環境問題へのスタンスは書き手によって違うはずなのに、入試で選ばれる主張はいつも似通っているということは、文章を問題文としてピックアップした人間の意思が働いているからだ。
(これを大学受験のときまでに腑に落ちるところまで理解したかった。。)

大学入試の現代文からみる受験生へのメッセージ

昔落ちてしまった大学の現代文にリベンジしようと思って、過去問を読んでみた。相変わらず回りくどい文章だったが、出題者がいるのだということを思い出して、改めて食らいつく。
そうすると、これは大学が受験生に当てた応援の手紙なのではないか?と思うようになった。

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ある年に知性がテーマになった時は、「大学に入るまでが勉強ではない。常に研鑽を重ねること。そして、賢さを鼻にかけるのではなく周囲をサポートできる人になって欲しい」が裏のメッセージだった。

なりたい自分と他者からの評価がテーマになった時は、「他人が●●さんってこういう人だよねと押し付けてきても、それは昔の自分には当てはまることであっても、これからの自分には当てはまらないかもしれない。意識的な努力は要するが、縛るものから自由になれ」がメッセージだったように思う。

科学がテーマになった年は、「科学や理論で世の中の全てを説明できると思ったら、世の中はつまらなくなる。少しずつでも新しい決断や行動をあなたがしていけば、新しい常識や世界が生まれる。だから諦めるな」だったはず。

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しかし、このメッセージが読み取れても、入試の解答欄を埋めることには必ずしも役に立たない。むしろ、この受験生に宛てたメッセージは誤読の可能性も高い。

しかし、そういうふうに拡大解釈(誤読)するのは楽しかった。間違っていたとしても、この大学ってこういうメッセージを込めてるんだよ!と人に話せるネタになり、ようやく現代文の問題を楽しめるようになった。
また、人は直接的にはモノを言わず、回りくどい言葉で自らの想いを託すのだと知ったのである。

会社の上司の言葉を読む遊び

この体験をしたのち、会社の上司の言葉をそのままの意味で捉えることが無くなった。(というか無くした。)どういう意図での発言なのか、どういう制約下での発言なのかだけを意識するようになってしまった。

これは誤読である。上司の発言を真に受けないのだから。そのまま忠実に実行しない点で害悪であるとさえ言って良いかもしれない。

しかし、そうしたことで別の才能が目覚めたようで、次第に上司の言動パターンが把握できるようになり、たまに次に発する言葉を予想できるようになった。

それに味を占めた私は、同僚に「そろそろあの上司は●●と朝礼で言う」と予言(予測)をするようになった。
そして、この予言がヒットするにつれて、私は勘が鋭い人間だという評価を得るようになったのだ。(実際は何回も予言を外しているのだが)

発言をそのまま受け取る方が楽だったかもしれないし、賢かったのは間違いない。
しかし、上司に言われたことをそのまま実行する世界は、遊びがなくて窮屈だった。穿ちすぎだとしても新しい解釈、別の解釈を提示することで、その窮屈な世界に予言で遊べる要素を潜り込ませたかったのだと思う。

誤読の副作用

上司の言動を予測することは結局遊びの域を出なかったがいま、その誤読の力は趣味でやっているタロット占いに活かされているように思う。
カードの意味を教えてくれる教科書は存在するのだが、それをそのまま当てはめるよりも、拡大解釈をしながら、時には教科書の教えから外れてでも(誤読してでも)一つのストーリーを作っていくほうが、占いは上手くいきやすい。

誤読は、誤読だと自分が認識していないままに行われると有害であるかもしれない。しかし、自分で穿ち過ぎなのだと自覚しているならば、それは本来の意味を理解した上で、原文への敬意を払いつつも、新しい解釈や価値観を提示できるものだと思う。

そこに現状を打破する可能性が秘められているのではないと、大学入試の問題文のような締め方をしておく。

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