見出し画像

心の中のマスク警察

修行が足りないなと思った話。

傷病手当をもらっているので心療内科に通院している。通院以外はコンビニと自宅を往復する生活なので、たまには違うものが食べたくなる。
感染者が増え続けて行った時は、通院の時もテイクアウトにしていたのだが、たまには外で美味しいものを食べようと思って店に入った。

入り口が開いていて換気が良さそうである。席と席の距離は1.5mほど離れていて、テーブルの上にアクリル板が設置されている。

しかし、左隣の若い女性はマスクせずに会話をずっとしている。右隣の年上の男性は、タンの絡まった咳をしている。注文をした後はマスクはしていない。

これがどうしても気になったのである。

コロナの発症率は都でも人口対比2%程度。決して多くはない。そして、換気はされており距離もまあまあ離れている。やるべきことはやっているので、気にしすぎるのはよくない。

しかし、喋るならなぜマスクをしないのかという感情と、風邪っぽい咳をしてるならなぜ外出をしたのかと責めたい気持ちが湧き出てきた

これは虫のいい話である
そもそも外食を私が止めればよかったのであり、外食していても席のチェンジをお願いするとかこちら側が避ける行動をとればよかった。
しかし、それを行わずに一方的に非難めいた感情を持つ資格が私にはない。

では、完璧に対策を取った状態で、電車で咳をしている人が目の前にいた場合なら責められるか?というと、やはりそういう訳にはいかないだろう。コロナが怖くて山籠りをしている場合でも、そうした人を責めることができない。

こちらの対策に穴がなく完璧であるとはどこまでいっても証明できないし、完璧な人しか出歩いてはいけないという思考は突き詰めれば、「人には絶対に何があっても迷惑はかけるな」となって、なんだか息苦しい社会である。

また、マスクなしで会話していた若い女性は、久しぶりにあってテンションが上がっていたかもしれないし、咳をしていた年上の男性はどうしても避けられない対面の仕事があったのかもしれない。
私がたまには外食でもするかと思ったように、社会全体的に自粛の雰囲気は緩まっており、その人たちだけを責めるのは違うように思う。

と、責めるのは心が狭いと理解しているのであるが、どうしても抑えられない感情があるのはどうしたらよいのだろうか。
本当のところでは、責めるのは良くないと理解できてないということなのか、人間だからそうした感情を持ってしまうのは仕方がないと受け入れるべきなのか。

一つ思うのは、私自身が雇い止め+療養生活という相当な自粛生活を送ってしまっているがために、他者と交わることが極端に少ない生活を送っている点である。

一人暮らしであり、生活資金に余裕があるわけではないので、仮にコロナを発症したとすると食事やゴミ出しはどうしようか、追加でかかるお金はいくらに上るのかなど頭を悩ませることが多い。コロナに罹るのは避けたい。

人によって価値観は様々で、他者と交わる時どうしてもお互いに譲り合う部分が必要だ。コロナへのリスクをゼロにすることはできない。
にも関わらず、湧き上がってしまう心の中のマスク警察は行き場を失くして、社会に馴染めない自分と頭と心で考えていることの自己矛盾への嫌悪感になって返ってくるのである。

お金を稼ぐということが大変だということを最近実感しています。サポートいただけると幸いです。