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イエス脳

岸本佐知子 著「わからない」を読了。

翻訳家の岸本佐知子さんのエッセイ。
既刊本、どれとどれを持っているのか分からなくなっていたけれど、新刊で単行本未収録の文章ばかりとのことで安心して購入。
安定の抱腹絶倒。

様々な媒介に発表された冒頭の章「わからない」で、膝を打ちまくったのは「イエス脳」と題された文。
(初出『パブリッシャーズ・レビュー白水社の本棚』2012年冬)

著者は小学校以外、幼稚園から大学までずっとキリスト教系の学校に通ったものの信仰心はゼロでただ手近なところや受験で引っかかったところに通った結果だったそう。

だがカトリックでもプロテスタントでも、使う聖典は同じだった。日本聖書協会刊『聖書』。信心はなくとも、キリスト教系の学校に通っていれば、否応なしに聖書との付き合いは生じる。ことに私 の通った中高一貫の女子校は、毎朝の礼拝に加えて各種行事や聖書の授業があり、このやたらと分厚 い書物を開く機会は多かった。
 だが私たちは、不信心で俗にまみれた何も考えていない獣みたいな二十世紀の女子高生だったから、 二千年も前に書かれたこの本の言葉は、ちっとも心に響いてこなかった。
 そもそも登場する風物が古すぎて、しばしば理解不能だった。

私も私も!
私の中高6年間もそうだった!

ぶどう酒関連のたとえ話もピンと来なかった。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れれば破れてしまう」とか言われても、私たちは「へー、昔ってワインを革の袋なんかに入れてたんだ、ほほん」と鼻をほじりながら思うだけだった。天国の門は私たちに遠かった。

町田康か。
この本の第3章で著者が町田康の「へたれ追っかけ隊」であることがあかされます。

そういうことを差し引いても、イエスのたとえ話は釈然としないことが多かった。主人が召使を呼んでそれぞれにお金を預け、自分が旅に出ているあいだにしっかり保管しておくように言う。召使Aは、その金を元手に商売をして何倍にも増やして主人に大変に褒められ、ほうびをもらう。ところが金をなくさないように大切に地面に埋めておいた召使Bは、主人にさんざん罵倒されたあげく、金を取り上げられて追い出される。「およそ神の国とはそういうものである」。ひどいじゃないか。たしかに財産を増やせば手柄だが、逆に失敗して金を減らす危険性だってあったはずだ。そこへ行くと召使 Bは、忠実なうえに元手も減らさなかったのに、なぜそんな目に遭わされなければならないのか。無茶苦茶だ。 

私がイエスの「例え話」の中でいちばん思い出すのもコレ。
「たんす預金するべからず」

主人から預かった金をなくさないように大切に壺に入れて土に埋めておいた召使い(BではなくCだったはず)は主人からボロクソに罵倒される。
「あなたは金を土に埋めるくらいなら銀行に預けておくべきだった。
 それなら利子を得ることが出来たのに」

エエエエー!?

金利の仕組みも何にも知らなかった中学生の私には結構衝撃的な話でありました。
そうか〜おカネはただ持っていてはいかんのか。
銀行にいれなあかんのか。

さすがユダヤ人。

でも金融機関破綻することもあるのにな。
そこまでボロクソに言われるのは理不尽なり。

つい先日、新紙幣発行に絡んでタンス預金のことがニュースになっていて、イエスの教えを思い出した私でした。

あれから数十年が過ぎ、私は俗世にまみれた何も考えない二十一世紀の中年になった。キリスト教徒にはならなかったし聖書のことももう考えない。それでも奇妙な分厚い書物の記憶は脳内深くに刻まれていて、今日もネットで服を買おうかどうしようか悩んでいたら、イエスが物陰からひょっこり顔を覗かせ、「着るもののことで思い煩ってはならない」と言って、すたこら逃げて行った。

このイエスは私の脳内にもしょっちゅうあらわれる。

朝、何を着ようとか、夕飯のお献立のことで悩んでいたら
「今日は何を着ようか、何を食べようかなどと思い煩うな」
という彼の人の言葉を思い出しては軽くムカつく😅


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